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2036年、人類は初めて火星に降り立った。平野啓一郎『ドーン』

2009.11.20

2036年、人類は初めて火星に降り立った。平野啓一郎『ドーン』

 スケールの大きな小説が好きだ。人は、ひとりで生きるのではない。人だけで生きるのでもない。ひとりがしたことは人から人へ伝播し、形を変え、思いがけない場所にいる見知らぬ人の行為をうながすだろう。そんな大きな視点の小説が好きだ。

 平野啓一郎の『ドーン』。タイトルはDAWNで、夜明けとか始まり、兆しを意味する。島田雅彦選考によるBunkamura ドゥマゴ文学賞を獲得したが、この小説が成功しているかどうか、それははまだわからない。しかし、スケール感はある。

 2036年。人類は初めて火星に降り立った。まず宇宙船の名前が、「ドーン」である。乗組員は6人。2年半の歳月をかけて、彼らは地球と火星を往復する。その中に、日本人医師、佐野明日人(あすと)がいた。

kibe091120.jpg平野啓一郎『ドーン』

 9年前。東京は震災にみまわれた。明日人は、妻・今日子との間の一粒種、太陽を亡くす。絶望を抱えて生きる一組の男女。火星行きは、明日人にとって再生への一歩であったかもしれない。しかし、その思いを妻が共有していたかどうかは別の話だ。

 一方で、アメリカ合衆国大統領選挙が大詰めに来ていた。「ドーン」は共和党政権下で火星に送られた。乗員のひとり、生物学者のリリアン・レインは共和党副大統領候補の娘である。共和党政権は、東アフリカの紛争に介入してきた。そこでは、蚊による生物兵器が使われたらしい。リリアンは、その研究に携わっていた。禁止されている生物兵器をアメリカ軍が開発し、リリアン・レインは担当者で、副大統領候補の娘、その上に--。

 彼女は火星への航行中、妊娠してしまったのである。火星で中絶手術が行われ、その映像はインターネットを通じて世界に広まった。噂が駆け巡る。相手は誰? 明日人の名もあがった。リリアンの相手が明日人なら、それは日本の恥であるとさえ罵倒される。

 ここまで書いても、小説の核心にはまだ触れていない。平野啓一郎は、「分人 dividual(ディビジュアル)」という考え方を持ち出す。「個人 individual(インディヴィジュアル)」の対語である。

 2036年には、世界のどこにいても、防犯カメラと監視カメラが人をとらえる「散影 divisuals」装置が普及していた。個人のプライヴァシーなど、もはやない。対人関係は多様になり、分人の考え方を持たなければ、人は生きられなくなった。生まれついての顔を自由に変える、整形技術も進歩しているのだ。プライヴァシーはなく、固の特徴はあいまいで、作り替えるのも自由。それが小説『ドーン』の時代。いや、私たちの2009年も、すでにそうなりかけている。

 大統領選挙は、オバマ民主党候補が注目されたことで記憶に新しい。宇宙探査には、日本人乗組員が次々に参加している。監視カメラは街の至る所に据えつけられ、WEB上の検索エンジンは、街の姿も人の姿も映し出してしまう。生物兵器の開発など耳新しくないし、「分人 dividual(ディビジュアル)」という言葉こそ平野啓一郎が使ったものだが、似た考え方が広まっても突飛ではない。

 ただ、どんなに閉塞した時代にあっても、人は希望を持って生きたいはずだ。結末は書かないが、明日人やリリアンら、他者の思惑に翻弄される登場人物たちも、苦しみつつ、明日もまた何とかして生きようとする。80億という数の人間の思惑がからみあっているのである。世界が劇的に変わることなどあり得ない。後戻りが続くとしか思えない状況の中で、一歩一歩進む、いや、立ち続けるしかないのである。夜明け、DAWNを信じて。DAWNをぼんやりと、感じながら。

 平野啓一郎は、わけ知り顔の小説を書こうとしなかった。結果を顧みず、人類規模の、世界に向き合う小説を書こうとした。壮大である。世界に向き合う作家自身の姿を想像しながら、最後のページを閉じたのである。

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2009.11.20  |  CULTURE
COLUMNIST

木部与巴仁

詩人

「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/

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