2009.09.03
妄想全開のエッセー漫画、
山口晃 『すゞしろ日記』
「エッセー漫画」と、『すゞしろ日記』の帯に書かれている。当初は、展覧会のために描いた、単発の日記だった。
「鼻持ちならない贅沢な絵描きの生活と、それを受けてのオチを日記風に描いたもの」
それが縁あって、東京大学出版会のPR誌「UP」で連載されることになり、一冊にまとめられた。「すゞしろ」とは、大根を雅(みやび)に言い換えた言葉。
「先のすゞしろ日記と性格は違うが、面白き事も無き世を面白く的な事をすゞしろの題に託している。こちらは実に小市民的な日常を大したオチもなく描くもので、下書きもせずに進めるものだからスジもメタメタな事が多い」
明治の文豪然とした風貌にキャラクター化された山口本人が、丸顔で大食らいの「カミさん」と人生の珍道中を繰り広げてゆく。
始まりは、次のようである。
「S氏の小説や翻訳を五編ばかり挿絵入りで復刻する企画の内 私の担当した第二巻があがったので、まだ本にとじられぬまゝのそれを携へて とりあへずの御アイサツに伺った訳である」
「S氏」とは澁澤龍彦のこと。澁澤夫人、R子さんの接待を受けるうち、秋田の造り酒屋、Kさんの話題となり、後日、Kさんに招かれて秋田に行き、人もうらやむ豪華な接待を受けることになる。しかし、後半はまったくのフィクション。さらに......。
「スイスR湖畔に在るオランダ人実業家K氏の別荘にて、バカンス前の半月ばかりを過ごす。静かな此の時期に滞在し、K氏の為に小さなタブローを一枚仕上げるのが、こゝ数年の私の六月だ」
洋行編の書き出しである。しかし、「こう云うコネクションは一切ない」という。「しょっぱなから妄想全開」「来たれパトロン!!」なのだそうだ。
以下、にやにやと笑いながら読み進めていくことになる。ただ、山口晃の常として、人の姿も文字も細かい。B5判の1ページに30コマ近くがあり、文字がびっしりと来ては、最後まで読むのは辛い。老眼が非常に進行している身とあっては、なおさら。そこで必然的に、『山口晃作品集』の付録だった拡大ルーペを取り出すことになる。なくさないでいてよかった......。
改めて思う。山口晃は画家である。日本の現代美術を代表する作家だ。ファンも多い。その彼が「エッセー漫画」を描く。画家が漫画を描いて、少しも悪いことはない。
漫画だって絵である。一点ものの油絵と、印刷されることが前提の漫画の本質を分けることはない。絵の中に台詞があっていいし、コマ割りされていいし、展覧会に足を運び、作品の前で大笑いしたっていいのである。観る側の気持ちを、山口晃は自由にする。
三越百貨店の百周年広告は鮮烈だった。雲の切れ間から、日本橋三越の全景が見える。江戸時代の日本人と現代の日本人が並んでいた。百年という時間が、同じ百貨店の内部で共有されていた。しかも、今や首都高速道路に太陽をさえぎられている日本橋が、大きな太鼓橋となり、高速道路をまたいでいる。日本橋の土地で、どちらがシンボルとして本来か、彼ははっきり示した。こういう示し方があると、教えられた思いだった。
私は『すゞしろ日記』を、これも山口晃の作品だと思って読んだ。てすさびとは感じない。伊藤若冲を主人公にした双六(すごろく)があり、曾我蕭白のエピソード集があるとなれば、これは間違いなく山口晃本来の作風だろう。画家はそれぞれの内にある必然に従い、描きたいものを描けばいい。観る側が自由になる前に、山口晃は描くことで自由になっている。
ずいぶん硬い言葉を並べてしまったが、『すゞしろ日記』は軟らかい。「妄想全開」だ。「フィクション」「フィクションなり」の連続なのだ。硬い心をほぐして自由を得るためにも、『すゞしろ日記』を繰り返して読みたい。
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/
