2009.11.06
ガラス作家と舞台美術家によるガラスジュエリー・アート。
絵がそうだろうか。写真がそうだろうか。彫刻がそうだろうか。停まった芸術というものがある。それ自体の時間は流れない。音楽や演劇や舞踊は動いている、流れる。時間芸術である。詩や小説は? 活字も本も動かないから停まっているが、読む者の頭の中で動くものがある。絵や写真や彫刻もまた、停まっていながら観る者の頭の中、心の中、想像力に働きかけて、無限の時間に私たちを誘う。
ガラス作家の光島和子と、舞台美術家の松岡泉が、シェイクスピアの世界を、ガラスジュエリーと、ボックス・アートで表現した。写真と文章で構成された『ガラスジュエリー/シェイクスピアの男と女』は、三度にわたって展覧会を開き、巡回展も行って来たふたりの、現時点での集大成である。梶洋哉による、約30点の作品写真が収められている。
光島和子、松岡泉『ガラスジュエリー/シェイクスピアの男と女 』
展覧会に初めて接したのは、2007年10月のこと。『シェイクスピアの男たち』展だった。東京・南青山のギャラリー+クック・ラボcomoが"舞台"になった。ああ、こんな表現があったのかと驚き、大袈裟でなく引きこまれた。松岡泉が造るボックス・アートが、舞台である。そこに光島和子のガラスジュエリーが、役者のように配される。
例えば、マクベス。
「明日も、明日も、また明日も、とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、/歴史の記述の最後の一言にたどり着く。/すべての昨日は、愚かな人間が土に還る/死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、束の間の灯火!」(翻訳・松岡和子)
松岡泉は石の牢獄を造り、光島和子は、牢の割れ目から、ゆがんだ銅板と鎖、ガラスを組み合わせたネックレスを吊り下げて見せる。死に向かって重たい歩みを続ける男の姿を、停まって動かぬ形に象徴させたのである。こんなものを見せられると、想像力はいきなり膨らんで、馬のように走り出す。
ロミオとのかなわぬ恋を貫こうとするジュリエットの姿は、白い、どこまでも続く階段の中ほどに置かれた、真っ赤な指輪だった。
ローマの将軍アントニーと恋に落ちるエジプト女王クレオパトラの姿は、透明の板に金色のガラスを点在させた、ネックレス。
信じてはいけない言葉を信じ、妻デズデモーナが不倫していると思った将軍オセローの姿は、赤い血に染められたブローチ。
王座への野望をむきだしにするリチャード三世。シェイクスピア劇随一の悪人の姿は、漆黒のガラス玉を使ったネックレスだった。
光島と松岡の共同作業は、2005年5月、やはりギャラリー+クック・ラボcomoで開かれた『シェイクスピアの女たち』展を皮切りにする。京都やニューヨークなどを回りつつ、『男たち』展を行い、2009年10月には、テーマを一作にしぼった『夏の夜の夢』展を開いた。12月26日(土)まで、富山県のリバーリトリート雅楽倶 4th museumにて、三つの展覧会を総覧できる『シェイクスピアの男と女』展が開かれている。
絵にせよ写真にせよ彫刻にせよ、それ自体は停まっているが、見る者の心を動かす。ガラスジュエリーは彫刻に近いだろう。シェイクスピア劇という、本来は時間で見せる芸術を、一瞬で表現する。しかし見た瞬間から、心の時間が動き始める。ギャラリーを後にして、例えていうなら幕が下りた後も、決して停まらず、終わることがない。忘れたようでも、その光景を折りに触れて思い出す。
『夏の夜の夢』展では、「宮廷から森へ」と題された作品が記憶に残った。
緑色の指輪に、真珠とルビーとアメジストが乗る。そこは宮廷の広間を思わせる白い空間。濃い青のガラスを通して、夜の森が見えた。数10センチしかない奥行きの、何と深かったこと。シェイクスピアの舞台そのものだった。また観たい。何度でも観たい。終わりのない芝居を、いつまでも観ていたい。
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/