2009.12.11
愛しい日々の、記憶のかけら、吉田修一『横道世之介』
"世之介"という古風な名前から、元禄時代が舞台の物語を想像した。根拠はもちろん、井原西鶴『好色一代男』の主人公と同じ名前だから。しかし、違った。吉田修一は1980年代後期、バブル景気に湧く日本を舞台に、18歳の青春物語を描いてみせた。その上で、登場人物たちの20年後、すなわち21世紀初頭の姿を挿入してゆく。
「新宿駅東口の駅前広場をふらふらと歩いてくる若者がいる。ふらふらしているのは体調が悪いわけではなく、肩にかけた鞄が重いかららしい。十歩ほど進むと、荷物を右から左の肩へ。そしてまた十歩で、左から右」
横道世之介は、長崎から上京したばかりの大学一年生だ。新宿から電車で30分の町にワンルームマンションを借り、都心の大学に通うのである。
引用した書き出しの文章からもわかるが、吉田修一は実に客観的な、地上5メートルほどの視点を維持しつつ、世之介の姿を描写してゆく。内面に踏みこみ過ぎず、遠過ぎることもない。ちょっと夏目漱石の、『三四郎』を思い出した。『三四郎』も、大学に入るため、東京に出てきた青年が主人公だ。右も左もわからない青年を描くには、適度な距離感が有効である。吉田修一は意識しただろう。調べてみると、『三四郎』が書かれたのは、『横道世之介』からほぼ90年前である。
それにしても、バブル期は嫌な時代だったと思う。暴力団を使った地上げが横行し、住人を追い出そうと、数人の男が家の前で火を焚いている不気味な光景を見た。実力行使で、事故に見せかけ、自動車を家に突っこませたる事件もあった。ディスコで踊り騒ぎ、結婚相手に高収入・高学歴・高身長を求め、高級車がブームとなり、ブランド商品を求めて右往左往する人があふれた。世之介の前にも、ついこの間まで長崎出の学生だったのに、イベント系サークルに所属し、鼻持ちならない態度をちらつかせる男が現れる。
ただ世之介自身は、そのような浮かれ騒ぐ世相から切り離されていた。赤坂のホテルでルームサービスのアルバイトをし、高級酒や高級料理を惜しげもなく注文する客たちに、世相を感じるだけだ。彼はあくまでもマイペースな、素朴で、純真な、世間知らずの若者である。そんな世之介だからこそ、周囲の人間に彼を嫌う者は少なかった。
大金持ちの娘で、世之介の恋人になる祥子。サンバサークルの仲間だが、すぐに恋人を妊娠させ、生活と育児のために退学する倉持。世之介の人懐っこさを迷惑がりつつ、それでも面倒を見てくれる同性愛者の加藤。東北の田舎町出身ながら、際立つ存在感で男たちを翻弄してゆく片瀬千春、など。その彼らが、物語の途中、あちらこちらで20年後の姿を見せ、世之介を思い出すのだ。
例えば、小さいながら広告代理店を営む加藤の述懐。
「世之介と出会った人生と出会わなかった人生で何かが変わるだろうかと、ふと思う。たぶん何も変わりはない。ただ青春時代に世之介と出会わなかった人がこの世の中には大勢いるのかと思うと、なぜか自分がとても得をしたような気持ちになってくる」
祥子の言葉も引いておこう。国連職員として、アフリカの難民キャンプで働いている。同僚に、世之介の思い出を語るのだ。立派という言葉とは、笑ってしまうくらい正反対の人だった、と。
「いろんなことに、『YES』って言ってるような人だった......もちろん、そのせいでいっぱい失敗するんだけど、それでも『NO』じゃなくて、『YES』って言ってるような人」
一冊のほとんどは、世之介が大学に入学した一年間の描写に費やされている。しかし20年後の登場人物たちは、報道カメラマンになった世之介の最期を否応なしに知らされる。冷静で客観的な、吉田修一の筆力である。ただ--。
物語の結末を明かすことになるので書かないが、今もはっきりと記憶に残る、ある事故を、作者は世之介の最期に生かしている。場所も人も変えているとはいえ、ああ、これはあのことだと瞬間的にわかる。『横道世之介』は事故の犠牲者を描いたモデル小説かと思ってしまったほどだ。
愛されながら、しかし他人も愛して生きた、世之介の人生。世之介の友人になった心境で読み進めていたのだが、最期の設定にわだかまりが残った。実際の事故を、なぜ世之介のこととして取り入れたのか? それがいけないというのではない。ただ、なぜ? その事故でなくてもいいはずだし、まったく違った終わらせ方でも問題はないと思われる。作者は、インタビューなどで理由を語っているかもしれず、調べてもみたがわからなかった。それに、周辺の資料ではなく、作品はそれ自体で判断されるものだろう。優れた作品に対する愚問として、記しておく。
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/
