TOPIC PATH
HOME
  >  COLUMN
  >  読んだ一冊 探した一冊
  >  負の感情を共感をもって描く。金原ひとみ『憂鬱たち』
負の感情を共感をもって描く。金原ひとみ『憂鬱たち』

2009.12.18

負の感情を共感をもって描く。金原ひとみ『憂鬱たち』

 知り合いに、鬱病に取りつかれた男性がいる。薬を呑まないと感情が混乱する。薬を呑むと治まるが、その代わり仕事がまったくできないという。

 骨折などと違い、精神の病は外見ではわかりにくいと思っていた。しかし、はっきりわかる。彼の悩み、彼の苦しみ、彼の置かれている精神の状況が、表情や肌の状態、言動、動作などから推測できる。

kibe_a.jpg金原ひとみ『憂鬱たち』

 闘っているのだろう。彼は、自分自身と。向き合っているのだろう。自分自身と。生きるために--。皮膚のない状態で、じかに世の中を感じているのかもしれない。

「今日の昼間、目覚めた瞬間に私は決意した。今日こそは精神科に行こうと。六月に入ってから一ヵ月近く、数年ぶりの鬱に悩まされ、昨日まではもう死ぬしかないのだろうと絶望していた。それが、今日目覚めると少しだけ体調が良かったため、この機を逃したら私は絶対に死んでしまう確実に死んでしまう明日には絶対死んでいる、そうやって強迫観念で自分を追い込み......」

 神田憂は、マンションの部屋を出て来た。目指すは駅向こうの病院。しかし、とあるバーの壁に「店員募集」の張り紙を見た。ドアを開けると聞こえてきたのは、がさがさという耳障りな物音。憂が直感したのは、
「三十代男性の全裸遺体をくるむビニール」
 実際は、おしぼりを冷温庫に詰めている音だった。

 Tシャツにジーンズをまとった40代半ばの男、カイズが現われ、憂は店員に採用される。そのうち、キッチン兼バーテンのウツイも姿を見せて、憂の居場所が決まった。

「私はただただ、自分が通う場所が欲しかったのだろう。通う場所、いや、通わなければいけない場所、いや、通うべき場所、いや、通ってもいい場所、だ。私は、私を通わせてくれる場所が欲しかった。私が通っても、誰も文句を言わない場所が」

 精神を病んだ場合は特にそうだろうが、病者とは、この世の居場所をなくしてしまった人たちかもしれない。生きているのに、心と身体を、どこにも落ち着けられない。

 冒頭の一篇『デリラ』に、『ミンク』『デンマ』『マンボ』『ピアス』など、神田憂の物語、全七篇が続く。今日こそはと思って家を出るのに、必ず何かが起こって病院に行けない。精神科くらい、いつでも行けるだろうと思う。しかし行けるのに行けないことが、すでに精神を病んでいる証拠だ。

 憂の前に現われるのは、決まってカイズとウツイ。ある時、彼らはバーの店員だった。ある時は見知らぬ恋人、ある時はタクシーの運転手、ある時はピアッシングスタジオの施術師、ある時は税理士、ある時は耳鼻科の医者。憂にとって、世の中の男はカイズとウツイ、二種類くらいしか存在しないのだろう。

 金原ひとみが芥川賞を受けた『蛇にピアス』を思い出す。主人公のルイは、舌にピアスをし、タトゥーをし、サドの男と関係を持つ。彼女を含め、登場人物たちは自分を痛め、他人を痛めることで、生の実感を得ていた。『憂鬱たち』に肉体の痛みは少ないが、鬱病に苦しみながら生きる憂は、『蛇にピアス』の登場人物に共通するかもしれない。

 痛みという、生物にとっての危険信号など、本当は感じない方がいい。だが、現代の日本には、多すぎるほどの痛みがある。哀しみ、苦しみ、息苦しさ、惑い、その果ての怒り。文学は、そうした負の感情に敏感な表現である。金原ひとみは、負の感情を共感をもって描く。だから、どうしても神田憂と金原ひとみが重なってしまう。神経科に行きたいのに行けず、カイズとウツイにちょっかいを出されながら書き上げたのが、この『憂鬱たち』かと想像する。中傷しているのではない。むしろ逆で、痛みを感じない作家、鬱病の手前に立たずにいられる作家の書いたものなど、読み応えがあるのかなと思っている。

PREV  |  NEXT >
2009.12.18  |  CULTURE
COLUMNIST

木部与巴仁

詩人

「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/

BACK NUMBER
BACK NUMBER