2010.01.08
カタルーニャ文学新世代による"映画みたい"な小説。『まぼろしの王都』
小説は小説であって、それ以外の何物でもない。よく何々のような、何々みたい、という言い方がされる。漫画みたい、お笑いみたい、芝居みたい、など。それは形容に過ぎず、たとえに否定の意味が含まれるから、くらべられた側はたまったものではない。できるだけ使いたくないが、『まぼろしの王都』を読んで思った。"映画みたい"と。
「いまから二百年以上まえ、カルロス三世はナポリからスペインにやってきた」
新しいスペイン国王が誕生したのである。
「カルロス王はものすごい規模のプロジェクトを夢見てたの。エブロ川の港湾都市になるような都市の構想、昔のアラゴン・カタルーニャ連合王国のちょうど中心に位置して......」
「これが完成すれば、エブロ川の灌漑でイベリア半島内陸部の開発が進むうえ、新大陸アメリカとの貿易も推進される」
新しい都をめぐる、数々の証言。ところが、そんな壮大な計画も......。
「ある時点で事業がストップした。なぜそういうことになったのか、よくわかってないし、ともかく、実現されるかされないうちに、早ばやと廃墟になってしまった」
現代では"まぼろしの王都"として、わずかばかりの残骸が残っているに過ぎない。アーケードのある広場、運河、港湾施設、未完成の教会、それに都市設計図、など。
物語は、ドラマティックに始まる。
200年前の、王都建設の担当者だった建築家が綴った回想録が、差出人不明のまま、主人公のもとに届けられた。現実の時間と、200年前の時間が交互に進行するうち、読者の前に思いがけない事実が明かされる--。
それにしても、私はなぜ、"映画みたい"と思ったのか? 映画にはこういう特徴がある、映画と小説は違うけれど共通項があると思うから、小説を映画とくらべたのだろう。
まず、映画も小説も、時間と空間の移動が自在であること。
『まぼろしの王都』は現代の物語だが、回想録を通して、18世紀のナポリやヴェネツィア、マドリード、サンクトペテルブルグなどが描かれる。小説も映画も、作者の一言、ワンシーン、ワンカットが時間と空間を決定する。
また、視覚的な要素が非常に強い。
主人公や主人公を取り巻く登場人物について、作者は内面性を描くより、行動を描くことに重点を置いているようだ。彼ら、彼女らは、移動し、語り、行動し、感情をぶつけ合う。主人公は現代の画廊経営に携わる美術関係者であり、建築家は王都建設に携わる。いずれも視覚性の強い表現だ。建築家が陥る、師匠の妻との恋愛模様もある。妻がモデルになったフレスコ画や、サンクトペテルブルグの宮殿など、大スクリーンに描けば、どれほど華麗になるだろうか。
そして、非常にミステリアスな物語である。
冒頭、いきなり「見えないまちの回想記」が現れ、物語は、"まぼろしの王都"を求めるミステリーとして進行する。最大の謎は、王都はなぜ造られなかったのか、ということ。また、回想録は誰が何の目的で、主人公に送ったのか。主人公は、どのようにして王都の謎に迫れるのか。許されざる恋愛にせよ、どんな結末に至るのか? 小説でも映画でも、ミステリーは人気のジャンルである。
あまりミステリアス過ぎて、ということもないが、実のところ、一度読んだだけではストーリーが頭に入らなかった。二度、三度と読み返すうち、ああ、これは主人公の心理や作家の思想を追うのではなく、ストーリーに乗ればいいのだなと気づいた。つまり小説のように立ち止まったり後戻りせず、映画のように前へ前へと進めばいい。
"映画みたい"
思わず、普段にない感じ方をしてしまったが、必ずしもマイナスの意味ではなく、作品の特徴を考える上では有効だったと思う。
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/
