2010.01.29
失って得た男の物語。スティーヴン・キング『悪霊の島』
スティーヴン・キングは過剰である。書かないことで読者の想像力をかきたてるのではない。書くことで読者にヴィジョン、像を見せるタイプの作家だ。上下二巻の『悪霊の島』も、書き手が違えば半分の量で済んだかもしれない。
失って得た男の物語。
ミネソタで建築会社を経営するエドガーは、工事中の事故で右腕を失う。精神に異常をきたし、妻には離婚を言い渡された。社会生活から引退し、静養の地と定めたフロリダの小島"デュマ・キー"で、エドガーは絵を描き始める。リハビリの一環だったが、見る人すべてから、思いがけぬ高評価を得る。ついには画廊と契約し、作品には高値がつき、個展を開催したところ一枚残らず売れてしまう。
眠っていた画才はあったろう。しかし、彼に絵を描かせていたのは、実はデュマ・キーの悪霊だった。失くした右手に取り憑き、さらには絵を媒介にして、悪霊は復活する。実は80年前にも、悪霊は災いをもたらしていた。双子の姉妹を海に引きずりこんで殺していたのである。エドガーの絵を買った人々を、死の恐怖が襲う。ついには、彼の愛娘まで......。憎き悪霊を封じこめるべく、エドガーは命がけの闘いに向かった。
物語の冒頭。トラックに乗ったエドガーが事故にあう場面の描写は生々しい。
「ぐしゃぐしゃに歪んでいく金属の悲鳴がはじまって、ラジオの音をたちまち飲みこみ、同時に車内が右から左へとぐんぐん狭くなってくる。......右腕にかかる圧力は、最初は腕を体側に押しつけ、ついで腕を押し伸ばそうとし、やがて腕を押し潰していく。バケツから湯をぶちまけたように、熱い血がどっと膝に流れ落ちてきて、なにかがへし折れる音が耳をつく。肋骨だろう」
キングの過剰さは、このような場面にこそ生きる。10年前に彼自身を襲った、交通事故の体験も生かされているだろう。外部からもたらされる痛みは、空想ではない。体に刻まれた記憶なのだ。
それにくらべると、物語の山場である悪霊との闘いに、いささか現実味が乏しい。つくりごとに現実感を与えようと、過剰さに過剰さを加える、キング自身の闘いぶりが想像された。
それにしても、『悪霊の島』の悪霊とは何なのか?
街を歩いていると、交通事故で死んだ人の霊を慰める石塔の類をしばしば見かける。安らかにという願い、通行する人を守ってという願い、それに加え、死を怒りに換えないでという願いをこめている。土地の霊を、鎮魂しているのである。
いかにも日本的な光景であり風習だが、キングの作品には、デュマ・キーだけに巣食う悪霊が登場するから、土地の霊という考えは、アメリカでも、じゅうぶんに成立するようだ。
デュマ・キーの悪霊は、かつて、その土地で不慮の死を遂げた者だろうか。それとも、生前に人であったということなど関わりない、悪霊そのもの? 例えば、地獄にいる悪魔のように。名作として評価が高く、映画化もされた『シャイニング』は、雪に閉ざされた山奥のホテルそのものが"悪霊"だった。同じく『ミザリー』は、ひとりの狂信的な読者が、生きながらの"悪霊"として人気作家に取り憑いた。
悪霊の正体は、読者に判断していただこう。いずれにせよ、安住の地を得ない者。生者を死者の世界に引きずりこもうとする者に違いない。地球はもう、人の血をたっぷりと吸いこんでいる。憎しみや哀しみや怒りも、存分に。悲鳴だってたくさん聞いた。何がどこで悪霊になってもおかしくない。ホラー小説の題材は、スティーヴン・キングがいくら過剰に書いても、次から次へと作品を生んでも、未来永劫、なくならないのである。
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/