2010.02.12
本というもの、それ自体を語る本。
管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』
数はわからないが、この原稿は、読者に読んでいただいている。
人は、ブログを読み、ツイッターのつぶやきを読む。メールはもちろん読む。旧メディアの新聞や雑誌も読んでいる。目当てのレストランを訪ねるには看板を読まなければならない。行きたい駅に向かうには路線図を読まなければならない。
-この言葉はあいまいだが-"活字離れ"が問題視されても、読むという行為そのものが人の営みから消える気配はまったくない。
『本は読めないものだから心配するな』
タイトルが刺激的だ。詩人で翻訳家、文学研究者でもある、管(すが)啓次郎の断言。人は読んでいる。なのに本に限って、このような言い方をしている。
看板を読む延長上に、本はないのか? 看板が読めるなら、本も心配なく読めるのでは? どうも、そうではないらしい。ミシェル・レリスの『幻のアフリカ』、クロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』、エイミー・ベンダーの『燃えるスカートの少女』などを挙げながら、管は一冊全体を通して、本と、それを書く人、読む人に、強い思いを捧げている。これは、本というもの、それ自体を語る本だ。
しかし、目次がない。索引がない。章立てもなければ見出しもない。(あの本について書かれていたのはどのページだったろう?)そんなことを思っても、手がかりがない。初まりの1行から終わりの1行までがひと続きだ。管の考えをここに見る。
こんな言葉があった。
「本に『冊』という単位はない」。またしても、断定。「これを読書の原則の第一条とする」とまで書く。読書に原則などあるだろうか? 管は続ける。
「ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり......」
「本とはいわばテクストの流れがぶつかる岩や石か砂か樹の枝や落ち葉や草の岸辺だ」
「問題なのはそのような複数のテクスチュアルな流れの合成であるきみ自身の生が、どんな反響を発し、どこにむかうかという......」
「読むことと書くことと生きることはひとつ。それが読書の実用論だ」
-古い言い方だが-まったく、読者へのアジテーションである。さらに別の言葉。
「すべての書店は、互いにつながっている」
管は、シアトルやアルバカーキやホノルルなどにある忘れがたい書店名をあげる。東京なら、K書店やAブックセンター、J堂、大書店に押される駅前の本屋、神田や早稲田の古本屋など。店の大小、古い新しいにかかわらず、どこもかしこもつながり、本の分野も言語も値段も変わらないという。K書店に行った足で駅前書店に入っても、私たちは同じ、"本という共和国"にいる。そこには、ドルが支配するお金の共和国とは相いれない、世界中の彼や彼女を結びつけ、共鳴させ、連鎖的に爆発させる力がある--。
管は、本をめぐるアジテーターだなと、改めて思う。本が好きだし、本とともに生きてきたし、本の力を信じ、他人にも、特に若者に、本のある人生を説き、すすめている。
そういえば、管はこの本で、図書館についてまったく語っていないが、どう考えているのだろう? 看板や路線図も、同じ読むことを前提に成り立っているが、双方の違いはどこにある?
私など、読むことに限らず、書くでも語るでも歌うでもいい、純粋な行為について考えるのが好きだ。読書は思考を伴う、しかし看板読みは瞬時の判断を生むだけ、ということか。看板が結ぶ、行動のためのネットワークもあるように思うが......。いや、別の機会に譲るべきテーマだろう。最後の引用をする。
「ただ楽しいからおもしろいから気持ちがいいから本を読み時を忘れ物語に没入するということは、ぼくにはまるでない。未来において『何か』の役にたつと思うから、読むのだ」
管の切実さを感じる。彼は飢えている。本はデザートではない。主食だ。本を血と肉にして生きてきた。私は本書を、「本というもの、それ自体を語る本だ」と書いた。一歩進めよう。この一冊には、管啓次郎その人の人生が刻まれている、哲学が語られている。
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/