2010.03.16
「雨のにおい」を知り、「草の伸びる音」を知る。クレア・キーガン『青い野を歩く』
目の前にカップルを立たせ、結婚の誓いをうながす神父がいる。しかし彼は、新妻と隠れた男女の関係にあった。神父の職が捨てられず、恋人を別の男の手にゆだねるしかなかった。彼らが暮らすのは、こんな土地だ。
「道は、かつて家があった場所で終わる。棄てられた壁には、息が詰まるほどツタが生えている。ハンノキが生えている湿地の一角で、水面が急に騒がしくなり、羽ばたきが起きて、鴨が飛びたつ......」
神父と新妻の逢瀬には、海岸や森など辺鄙な(へんぴ)な場所が選ばれた。誰がどこでどのように暮らすか、誰もが知る小さな田舎町だから。しかし--、
「あるとき、海岸でミス・ダンにばったり出会った。彼女はこちらに向かって歩いており、向きを変えるには遅すぎて、もうすぐ顔を合わせるというところで、彼女は海のほうにそれた。その日も、そのあとも、彼女はふたりを見たことを一切ほのめかすようなことはなかった」
作品集の題になった、『青い野を歩く』である。
--ページをめくるたび、浮かび上がってくる。人の風景が。風景の、風景が。
アイルランドの、都会ではない場所を舞台にしたクレア・キーガンの小説を読みながら、時折り、時代がわからなくなった。人が、電気というものを手にしていないころであってもいいと思った。
もちろんそんなことはないので、アメリカに行くため、母と別れようとする娘は飛行機に乗るし(『別れの贈りもの』)、歴史的価値を持つ家が見たいという申し込みは電話で行われるし(『長く苦しい死』)、女の手紙をポケットに忍ばせて、巡査部長は自転車にまたがって町を巡回している(『降伏 マクガハンにならって』)。そうした現代性をわかっていながら、物語には、ろうそくやランプの灯に照らされ、テレビやラジオの騒音のない部屋がふさわしいと感じる。
おそらく、クレア・キーガンは、現代のテクノロジーなどというものに関心がない。あとがきにも、"都会ではとても暮らせない"と、彼女が海辺の田舎町に、犬や馬と住んでいることが触れられている。1968年生まれだが、その百年前や二百年前の女性だとしてもおかしくないだろう。
クレア・キーガンに感じた"古さ"を、私は時代にとらわれない作者の感覚だと解したい。いつの時代、どんな場所にも、人の風景はあった。人が生きる姿も、心情も、同じだ。千年前の人が、空を飛び、喜怒哀楽と無縁に暮らしたはずはない。やはり地面を右に行き左に行き、泣いたり笑ったりしながら、朝と夜のある人生を過ごしていた。
作品集で、まず印象に残ったのは、『森番の娘』。結婚したとたん、夫の愛情を感じなくなった妻には秘密があった。夫の留守中、薔薇を売りに来た男と関係を持ったのだ。やがて子どもが生まれ、夫は我が子として育てる。妻は相変わらず、夫にも子どもにも、結婚生活そのものにも屈託を抱えて生きた。そうしたことの一切を、彼女は村人たちに、夫も子どもも聞いている前で、フィクションとして物語る。そして、それが実話であることを、誰もが理解した......。
あるいは、短編集の最後に置かれた『クイックン・ツリーの夜』。死んだ神父の代わりに、いとこだという女がやって来た。彼女は強情で、説明不能の心を抱えている。不思議な力を持ち、他人の病を治すことができた。隣家には、雌の山羊と一緒に暮らす男がいた。ふたりは同棲を始め、子どもが生まれる。そんな関係に激しく嫉妬したのが、山羊だった。子どもが生まれた夜、男は思う。女は決して理解できないと。「女は雨のにおいがわかるし、医者の書いた文字が読めるし、草の伸びる音がわかった」......
最後の引用を、私はクレア・キーガン自身のことだと思う。キーガンは「雨のにおい」を知り、「草の伸びる音」を知る。すぐ後には、こんな文章もあった。女には「風が見えた。夢のなかで、彼女は風が生命を与える木を揺すり、実が血の玉に変わって、彼女が横たわった場所のまわりの草に落ちるのを見た」見ているのは、やはり作者自身だ。
現代性とか、都会性とか、流行、新しさ、先端のスタイル。そんなものに惑わされず、クレア・キーガンはひたすら「雨のにおい」や「草の伸びる音」を感じながら、小説を書いている。小説家らしい小説家だ。女性作家らしい作品だと思いながら読んだ。
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/