2010.05.07
物語を作ることで、世界と、現実と、対峙する。阿部和重『ピストルズ』
小説とは? 何のためにあるのか? 作家は何を、何のために書き、読者は何を、何のために読む?
阿部和重の『ピストルズ』を読み、ひとつの結論を得た。ないものをこの世に存在させること。それが作家の力である。
作家が書かなければ、なかった。しかし、阿部和重は書いた。世界が生まれた。読者は読んで世界を共有する。それはもう現実だ。舞台は山形県東根(ひがしね)市にある、神町(じんまち)。阿部和重の読者には懐かしい。『シンセミア』『ニッポニアニッポン』『グランド・フィナーレ』などの舞台である。阿部和重が生まれた土地でもある。神町は現実だが、『ピストルズ』などの作品世界は、虚構だろう。しかし、彼が語ってしまった以上、それは現実と変わらない。
インターネットで検索すれば、東根市が現われる。神町もある。あるのだが、私は行ったことがない。本当にあるのか? 見るまでは嘘か本当かわからない。あるはずの東根市や神町を疑って、『ピストルズ』などの物語を疑っていない。読んだから。読んで、実感を得たから。
「若木山(おさなぎやま)の裏手には、魔術師の一家が暮らしている」
こう書かれた、たったの一行で、魔術師はこの世に存在する。
魔術師一家の名は、菖蒲(あやめ)という。家はモモ畑に囲まれ、道路から中を見ることはできない。魔術をもってヒーリングサロンを営んでいる。次女のあおばは小説家であり、彼女の語る一人称の言葉で、『ピストルズ』は成り立っている。主人公は、魔術師の系譜を受け継ぐ、四女のみずき。四人の娘に四人の母親がいる菖蒲家の実態が語られ、人の心を自在にあやつる魔術の正体が語られる。菖蒲家の存在、とりわけみずきの行いが、神町に何をもたらしたか--。
あおばの言葉を書きとめるのは、神町にある石川書店の主人。『グランド・フィナーレ』に登場した自殺願望の少女ふたりのうち、麻弥の父親であり、『シンセミア』で神町に起こる、悲劇の発端を担った人物である。もうひとりの少女、亜美は、『ニッポニアニッポン』で佐渡のトキを殺害しようとして逮捕された青年、鴇谷(とうや)春生の妹。少女ふたりが、芸能祭の舞台に立ちたいから演技指導をしてほしいと、もと教育映画の監督、沢見克実に頼むくだりは、そのまま『グランド・フィナーレ』である。
他にも多くの人々が、多くの作品を往ったり来たりする。阿部和重のこれまでの作品を呑みこみ、肥大して、『ピストルズ』は一冊になった。物語の裏の裏が見えて来る。人と人の関係が見えて来る。読者は神町の住人の戸籍でも作れそうなほど、町の事情に精通する。2004年に発表された『グランド・フィナーレ』を『ピストルズ』が謎解きする。2003年に刊行された『シンセミア』を『ピストルズ』が続篇として継承する、といったような関係にあるから。
常識的にいえば、何もかもフィクション、嘘だろう。しかし、そう思えない。嘘だとしても、あまりに身近で生々しい。『シンセミア』は、敗戦直後から物語が書き起こされており、神町の戦後史ではあるが、神町を通して、日本の戦後を描こうとした印象を受ける。『ピストルズ』に描かれたのも、戦後を生きる日本人の姿である。菖蒲家に全国から集まる、社会をはみ出してしまった若者たちの姿に、時代を感じた。既成の制度、政治、宗教を否定する者が集団化して、離合集散する模様を、私たちは見て来た。それは今もある。
神町は、東北にある地方の町だ。しかし作者の構想は、日本そのものを描くことにあると思った。小さな町が、物語を通して、日本に重なってゆく。私たちひとりひとりが、日本人の典型であるのと同じことだ。
『ピストルズ』は、ない世界を描いている。阿部和重が書くことで、この世にあり得た。日本と日本人が見えてきた。だから、あり得ないことも、あることだと思った。魔術師が現れるが、嘘じゃない。本当のことだ。日本人が本当に経験し得ることだ。魔術師どころか、嘘だろうといいたくなるできごとが現実の日本に、世界に、ひしめいている。
『ピストルズ』は、この世の写し鏡である。阿部和重は、物語を作ることで、世界と、現実と、対峙している。
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/