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故・ロベルト・ボラーニョの

2010.06.07

故・ロベルト・ボラーニョの"生の軌跡"を旅する。『野生の探偵たち』(上)(下)

 2009年、白水社の"エクス・リブリス"シリーズに収められた短編集『通話』によって、ロベルト・ボラーニョは大切な作家となった。名前すら知らなかったのに。

 中でも『センシニ』。スペインに暮らすチリ人青年が、市が主催する文学賞に応募して3等になる。そしてひとつ上の2等に、かねて注目していたアルゼンチン人作家、センシニの名前を見つける。センシニはスペイン語圏に、数は少なくても熱狂的読者を持つ実力者だった。そんな彼が、なぜ地方都市の文学賞などに応募しているのか?

 若者とセンシニの交流が始まる。センシニは生きるために、つまり生活費を稼ぐため文学賞に応募していた。賞金のためなら、同じ作品の題を変えて複数の賞を狙うことも厭わなかった。この考えを不道徳だとはいえない。生活は自分自身で保障しなければならない。見ず知らずの選考委員など、何のあてにもならないから。

 やがて主人公は、センシニ家の事情まで知るようになるのだが、私はボラーニョの、あるいは短編『センシニ』の、何にひかれたのだろう。

 若者もセンシニも、主人公として颯爽としているわけではない。どう擁護しようと、小説の重複応募など、ずるく、非良心的な行為だ。しかし、彼らは卑屈ではない。貧しいが意気軒昂である。作家として有名になろうとか、大勢の人に評価してほしいなどという、世俗的な野心も物欲しげな態度もない。

 生きることと書くことが結びついているからだろう。例えば生きるために、社会の底辺を支える類の仕事に就いた彼や彼女を、惨めだといえるだろうか? 逆に、政治家や役人や大企業の経営者や莫大な資産を持っている人たちの方に、人間としてどうか? といいたくなる例を、私たちはたくさん見ている。

 ボラーニョの作品に、社会の主流を生きる人は登場しない。非主流でも誇りを失わずにいる人々が登場する。『センシニ』の若者はボラーニョ自身である。メキシコを離れてスペインに暮らした、彼自身の体験に基づく。彼は書きながら生き、生きながら書いた。私はそこに共感したのだろう。

 ロベルト・ボラーニョの最新邦訳-彼はすでに死んでいる、2003年に50歳で-『野生の探偵たち』上下巻が出た。再び白水社の"エクス・リブリス"から。

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 50数年前。ひとりの女性がメキシコの砂漠に消えた。

 詩人でもある彼女を求め、1975年の大晦日に、ふたりの若者が旅立つ。続いてのヨーロッパ放浪。

 ボラーニョが登場人物に若き日の自分を託して書いた長編小説。

 そういわれると、買わないわけにはいかない。日本語版のカバー装画に使われた、ジュール・ド・バランクールの『衆愚の饗宴』も混沌としてすばらしい。内容を見ていこう。

 1970年代のメキシコ市で、新しい詩の運動〈はらわたリアリズム〉を進める若者たちがいた。リーダーは、アルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマ。彼らは貧しく、不器用で、ふしだらで、真面目に運動に取り組んでいるかどうかは怪しい。しかし本能的で、エネルギーだけはあり余るほどあった。

〈はらわたリアリズム〉には、手本とすべき詩と詩人がいた。1920年代、謎めいた詩を残したままソノラ砂漠に失踪した女性、セサレア・ティナヘーロである。アルトゥーロとウリセスは、セサレアを求めて砂漠に向かう。そして帰って来ると、今度はヨーロッパに渡り、フランス、イタリア、スペインなどで歳月を過ごす......。

 筋立てはこのようになるが、物語はストレートに進んで行かない。上下巻は三部に分かれ、一部「メキシコに消えたメキシコ人たち(1975)」と三部「ソノラ砂漠(1976)」は、アルトゥーロとウリセスに従う青年、フアン・ガルシア=マデーロの日記である。彼も〈はらわたリアリズム〉の一員で、年長の学生たちとつきあううち、次第に勉学に身が入らなくなり、いっぱしの詩人となってゆく。

 そして長大な第二部「野生の探偵たち(1976-1996)」には、失踪したセサレアおよび、アルトゥーロとウリセス、そしてメキシコ前衛詩についての、50数人にのぼる人々の言葉が並ぶ。

 第二部には物語の進展が感じられず、語り手が多いため視点が多岐にわたり、20年もの時間が交錯するから、初めは読みづらい。

 しかし、例えばアマデオ・サルバティエラはセサレア・ティナヘーロをよく知る人物だから、彼の言葉を拾っていけば、セサレアの人と詩が具体的にわかってくる。アマデオによれば、セサレアがこの世に残した唯一の詩「シオン」は、直線と波線とぎざぎざの線が引かれ、それぞれに小さな四角形が乗っているだけ。言葉はない。そんなもののどこが詩なのか? 詩とは何を意味するのか? アマデオはいう。「何も意味しないさ」セサレアが詩だといった、だから詩なんだ――。

 証言の中に、アルトゥーロとウリセスの描写がしばしば現れる。例えばペルラ・アビレスによる、高校時代の思い出。

「彼はサッカーが好きで、わたしはその姿を階段から見ていたのだけど、あんなきれいな男の子は見たことがないと思ってた」

 その美少年の名前を彼女はいっていないが、おそらくアルトゥーロ・ベラーノである。作者ボラーニョが自分を投影して書いた。ボラーニョは、放浪時代にチリに立ち寄り、クーデターに遭遇して危険な目にあっている。そのエピソードを伝え聞いて、ベルラは夢を見た。アルトゥーロのことだが、ボラーニョの姿として読む。

「夢の中の彼は痩せこけて、骨と皮だけになって、木の下に座っていた、髪は長くて、ひどい身なりで、靴もぼろぼろで、立ち上がって歩くこともできなかった」

 エディット・オステルは、バルセロナでアルトゥーロと同棲した。そのころの思い出。ここにもボラーニョの姿が投影されている。

「夜は、わたしはたちはよく書き物をしていたの。彼は小説を書いていて、わたしは自分の日記と詩と映画のシナリオを書いていた。わたしたちは向かい合って書いていて、お茶を何杯も飲んでいたわ。発表するために書いていたんじゃなくて、わたしたち自身を知るために、というかどこまで行けるかを知るために書いていたの」

 第二部の証言集は、長さこそさまざまだが、ひとつひとつが、起承転結のある物語を思わせる。フィクションである。しかしボラーニョは事実を材料にして書くタイプの作家だから、〈はらわたリアリズム〉の歴史を、小説の形で書き残したと判断していい。小説家として知られたものの、詩を出発点としたボラーニョの考えが、至るところに現われる。いや、『野生の探偵たち』それ自体が、詩に関する彼の考え、あるいは小説のスタイルを取った詩かもしれない。詩にはスタイルなどない。詩の匂いを感じれば、それは世界のどこにあろうとも詩である。

「セサレアの住んでいた部屋は、元教師の部屋ならこうだろうと誰もが想像するように、清潔で整理が行き届いていた。しかし、その部屋の何かが、彼女の胸をしめつけた。その部屋は、彼女と友達との間にあるほとんど埋めようのない隔たりの残酷な証だった」

 散らかっていたとか、悪臭がしたとか、限りなく貧しかったとか、住む街の不潔さが侵入していた、そんなことではない。

「何かもっとかすかなもの、まるで現実がその失われた部屋の中で歪んでしまったかのような、いやもっとひどいことに、まるで誰かが、セサレアが(まぎれもなく彼女自身が)歳月がゆっくりと流れる間に、現実をわずかに歪めてしまったかのようだった」

 あるいはセサレア自身が、現実を歪めてしまった......?

 アルトゥーロたちは、セサレアを知っているという女性教師に出会った。彼女が記憶している、セサレアの部屋の描写である。ボラーニョはもっと細部にわたって書きこんでいるが、この世に一つしか詩を残さずに消えた女性の、しかし間違いなく詩人だった彼女の精神が、この部屋に形象化されている。

 若者たちが実際のセサレア・ティナヘーロに会えたかどうか。その結果は書かない。しかし、詩人の精神は現実すら歪めるという指摘は、『野生の探偵たち』の白眉だ。この場面は、第三部も終わろうとするころに現われる。読者が、アルトゥーロやウリセスたちと長い旅をした、その到達点といえるだろう。

 先に記したが、ロベルト・ボラーニョは50歳で死んでいる。日本で刊行されたのは、短編集『通話』と、長編『野生の探偵たち』である。しかし彼には、詩集『未知大学』などに収められたたくさんの詩や、小説『アメリカのナチス文学』『遠い星』『2666』といった作品が、まだまだある。彼自身の生の軌跡を、もっと知らなければ。

 本書の解説や帯に、さまざまの詩人や小説家、映画作家の名があげられ、ボラーニョを彼らになぞらえて価値づけているが、そのようなことはまったく不要である。ボラーニョは他人のコピーではない。オリジナルである。他の誰にもないものを、彼は持っている。ロベルト・ボラーニョが切り開いた、彼だけの世界を読みたい。

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2010.06.07  |  CULTURE
COLUMNIST

木部与巴仁

詩人

「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/

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