2010.06.15
嘘の向こうに言葉の力を体感する。湊かなえ『告白』
言葉を信頼したいし、文章を信頼したいし、言葉と文章の強さを信じたい。本当だから信じる、嘘だから信じないということではない。本当でも嘘でも、言葉と文章には力があるといいたい。
「牛乳を飲み終わった人から、紙パックを自分の番号のケースに戻して席に着くように」
いつもと変わらない、女性教師、森口悠子の指示であった。これを聞けば、騒がしい生徒も反応する。従っても従わなくても、反応だけはする。言葉に、力があるから。
森口はいった。
「私は今月いっぱいで教員を退職します」
一方的な通告。
「教員を辞めるのです。辞職です」
通告のだめ押し。
「一年B組のみんなは永遠に忘れることのできない私の最後の生徒ということになります」
それは事実。疑いようのないこと。
"辞めるのはあれが原因か?"
問いかけがあった。対話、ダイアローグの予感。しかし、森口は対話しない。するつもりなど最初から、なかった。
「そういうことを含めて、最後にみんなに聞いてもらいたい話があります」............
湊かなえの『告白』が映画化された。全六章で構成されるうち、一章の『聖職者』は、それ自体で完結した短編として発表し、小説推理新人賞を獲得した。続篇として書き継いだ五篇を加え、全六章の長編として単行本化。そして、2008年度週刊文春ミステリーベスト10で第一位に。2009年には第六回本屋大賞に輝いた。映画化されて公開中だから、内容は多くの人に知られているだろう。
森口悠子の娘、四歳の愛美(まなみ)が殺された。犯人は、森口のクラスの生徒である。警察は事故と発表するが、森口は殺人と確信。ふたりの犯人、AとBを突きとめた。そして警察に通報せず、自分の手で復讐しようと思う。
第一章「聖職者」は、森口による復讐の宣告だ。クラス全員に向けて語られる。第二章の「殉教者」は学級委員の北原美月が、退職した森口に向かって書く書簡体小説。第三章「慈愛者」は犯人Bの姉が紹介する、母親の日記。第四章「求道者」は犯人Bの手記、あるいは文字にならなかった記憶。第五章「信奉者」は、犯人Aによる遺書。そして第六章「伝道者」は再び森口悠子が登場し、携帯電話を通じてAに語りかける。
ひとつの事件を複数の人の言葉で描き、立体化する。旅の夫婦と、彼らを襲った盗賊の物語、芥川龍之介の『薮の中』を思い出した。『薮の中』も、『羅生門』として黒澤明が映画化している。
続篇を書いている間、作者は楽しかっただろう。物語を掘り下げ、世界を拡大する。ひとりで映画を作る感覚に似ていたのではないか。
--これは、書評である。
映画評をするつもりはないが、映画とからめて、以下を書く。
文庫版『告白』の巻末に、映画の脚本・演出を手がけた、中島哲也監督の談話が載っている。気になる言葉を見つけた。
「一見、全員が自分の真情を吐露しているように見えます。しかし、彼らが真実を話しているという保証なんかどこにもない」
映画館で求めたパンフレットには、「みんなが語る言葉が本当かどうかはわからない」とした上で、こうある。
「言葉に頼らない映画を作りたいという想いは、あったんです--つまり、『この台詞がよかった』とか、そういうんじゃない......」
芥川の『薮の中』、黒澤の『羅生門』がまさにそうだが、登場人物は、ひとりも真実を語っていない。中島監督も同じようなことをいっている。しかし、原作『告白』で、湊かなえは、登場人物に頼りにならない言葉を口にさせているのか? 読者は、虚実が交錯した言葉を読んでいるのか?
この問いの答え自体が薮の中なのだが、少なくとも私は、森口悠子の告白も、少年AとBの告白も、Bの母親の告白も、Aと心を許す北原美月の告白も、本当のことだと思って読んだ。根拠は--、嘘をつく必用がないから。
芥川の『薮の中』は、現代の警察にあたる検非違使(けびいし)の取り調べなどに対する答えだった。夫も妻も盗賊も、他人に対していい格好をしたり、自分を哀れんでほしい、自分は被害者なのだと訴える魂胆が見えた。しかし『告白』の人物たちに、そうしたことが必要だろうか。
森口は犯人AやBを相手に語った。学級委員の美月は小説を通じて森口を、母親は日記を通じて自分を、AやBも手記や記憶で自分を相手にした。皆が当事者同士であり、警察などの第三者は介入していない。ストレートに読めばいいのではないか? 言葉を疑う必要など、どこに--。
これは書評である。映画評ではない。書き手の態度として、私は小説『告白』を紹介すればいい。読むに足る小説である、と。
四歳の少女が殺された。
事件をめぐって、五人の人物が、それぞれの思いを述べる。哀しみであったり、怒りであったり、戸惑いであったり、復讐の快楽であったりする。
誰もが、自分の立場に立っている。
幼い娘を殺された森口は、もちろん悲しいし、怒るだろう。だが、殺した少年たちにも、殺す必然性があった。少年の母親には、殺された少女より、殺した自分の息子の方がかわいい。森口も、娘のために復讐するというより、少年たちを追いつめること、それ自体が目的になる。北原美月は、一切を綴った小説を新人賞に応募し、事件を暴露しようとしている。
すべてはエゴ。見事なまでに自分本位。
誰も、他人のことなど考えていない。そうした者たちの、これは"告白"集なのだ。エゴを文章や言葉で形にしている。だから、『告白』に大切なものは、言葉だろう。
映画監督は、言葉に頼ってはいけないと思っていい。しかし、『告白』は小説である。言葉で成り立っている。映像や音楽の力なしに、読者は言葉に向き合って、物語を体験する。言葉以外に頼れるものなどない。
読者は、六つの章に現われる言葉、その力を体験すればいい。嘘があるとしたら、それは、本当の嘘である。
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/