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2010.06.24

"家族"そして"並行世界"が交錯する。東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』

 去る5月、第23回三島由紀夫賞に選ばれた作品である。著者・東浩紀は、批評家として、すでに17年間の活動があり、『存在論的、郵便的』でサントリー学芸賞を受賞している。

 私は著者と一面識もなく、批評家で大学教授の彼が、なぜ小説を書こうとしたか、その理由を知らない。しかし、その意志は、勇気あるものと考えたい。

 批評家には、ジャンルを問わず、他人のすることに何かとケチをつける人と、他人のすることを呼び水に思惟をめぐらす人がいる。東浩紀は後者である。現代文化で、彼の俎上に乗らないものはないだろう。

『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』『ゲーム的リアリズムの誕生』『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』『キャラクターズ』『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』、など。

 著作名を見るだけでも、その傾向はわかる。社会問題に切りこむ批評家といえよう。『クォンタム・ファミリーズ』は、その彼が初めて単行本にした、小説第一作である。
 

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 読もうとしたのは、それが三島賞作品だからではなく、"家族"の物語だから。家族は、いつの時代も重要なテーマである。捨てるにせよ捨てられるにせよ、誰もが一度は家族であった。そして、私たちは知っている。家族とは、異なる現実の集積であることを。

 夫には夫の現実があり、妻には妻の、娘には娘の現実がある。表面的にはたばねられていても、いつ何時、ばらばらになるか、誰にもわからない。仲がよさそうに見える家族ほど、実は危ういかもしれない。小説はもちろん、演劇や映画でも繰り返し取り上げられてきた、古典的なテーマである。

 そして、"家族"とともに東浩紀が考えさせてくれるのが、"並行世界"の存在だ。SF的といえるが、私たちはすでに、並行世界に直面している。

「ネットはいまや、並行世界からの干渉を受信する巨大なアンテナのように機能しているのです」

「わたしたち自身が、並行世界を夢見ることでようやくこの現実を認識する、そのような危うい存在なのです」

「わたしたちの世界のすぐ隣には、無数の並行世界が開け、そしてわたしたちはネットを通じてそれらの世界と繋がっている」

 引用したのは、『クォンタム・ファミリーズ』に登場する、量子脳計算機科学者の発言だ。 
 
『クォンタム・ファミリーズ』の家族は、このような並行世界を漂流し、もはや自分たちがどこにいるのか、何をしているのか、何歳であるのかさえわからない人々である。

 主人公は、葦船往人(あしふね・ゆきと)。"葦の船のようにながれ往く人"の意味か。作家であり、大学教師である。妻は友梨花(ゆりか)。どこかの並行世界に、娘の風子(ふうこ)がいる。さらにまたどこかに、風子の弟、大島理樹(りき)がいる。

 例えば--、葦船往人は、ある女性から電子メールを受け取る。女性は、娘が産まれた場合にと、妻と相談して考えておいた名を持っていた。しかし、往人に娘はいない。

 往人は、テロリストとして航空機内で自爆テロをくわだて、事前に逮捕されるが、別の世界では彼自身が、テロの被害者として死んでしまう。

 妻の友梨花は、"おおしまゆりか"のペンネームで児童文学者として活躍し、中でも「汐子(しおこ)」シリーズはロングセラーになっていたが、別の世界の「汐子」は、往人による未発表のファンタジーだった。

 並行世界をさまよう人々は、"検索性同一性障害"とみなされた。ある世界の友梨花は、彼ら彼女らを救うための組織を作るが、実は彼女自身が、重度の患者だった......。

 あらゆる可能性を持ち、それゆえに何が現実かわからない。そんな葦船一家が、並行世界をあちらへ往き、こちらへ往く。

"家族"と"並行世界"。

 東浩紀は、古典的なテーマと、現代的なテーマを並べた。

 家族については、著者は小説家として、家族相互を愛そうとして愛せず、結局は自己愛に陥り、他者への不信感をいっぱいに抱えて生きる、現代人の姿を描いた。

 並行世界については、批評家としての姿勢で、量子力学の考えを用いて解説しながら、自己喪失しかけている現代人の姿を丹念に、様々な角度から描いてみせた。

『クォンタム・ファミリーズ』において、ふたつのテーマは不可分であり、著者の小説家および批評家としての姿勢も不可分である。しかし私は、小説家よりも批評家の姿勢を強く感じ、さらに家族のテーマを並行世界よりも強いものとして受け止めた。つまり、小説を書こうとしたのに批評家の顔がのぞいている。現代的な並行世界の描写に力を入れたかもしれないのに、古典的な家族の問題が印象に残った、ということ。

 先に書いたが、あえて並行世界といわなくても、家族の問題は、それをすでにはらんでいる。三人家族には三つの世界がある。仲よく食卓を囲んでいても、頭の中、心の中では、別の現実が進行している。さらにメールが届けば、携帯電話が鳴れば、ツィッターに未知の誰かが投稿してくれば、現実の数はたちまち増える。すでにある、無数の並行世界。現代は、じゅうぶんにSF的だ。

 批評とは、仕組みを解き明かすことだろう。文学の役目は現実、真実の描写にあり、仕組みの解明にはない。

 私は東浩紀が小説を書こうとした姿勢を否定しない。小説は小説家にしか書けないものだと思うが、
 
--技術の問題ではなく、小説しか書けない人が書くものが小説だと思っている。何でもできるから書いてみたというような小説に、読者の心をふるわせる力があるだろうか? 
 
--批評家が小説を書いていけない道理はない。書きたければ書けばいいし、作品からアンバランスな印象を受けた私は、アンバランスさこそ意欲の表われと考える者だ。こじんまりまとまった作品より、意欲がほとばしったあげく、大きく破綻した作品の方がよい。いや、破綻するどころか、『クォンタム・ファミリーズ』は、三島賞を獲得した。価値のある作品であり作者だと認められているのだ。

 おそらく作者は、批評と小説という、ふたつの分野にまたがって立とうとしている。

 三島賞は、小説にも批評にも与えられる賞だが、両者には明らかな違いがある。批評家としての姿勢が強く出てはいても、『クォンタム・ファミリーズ』は明らかに小説である。古典的なテーマが印象に残ったが、最先端のテーマも内包されている。どれについても語りたいのが自分だから、彼は、小説の形で表現しようとした。
 
 他の作家にはできないことだ。東浩紀には可能性がある。成功の保証はない。三島賞は取ったが、『クォンタム・ファミリーズ』が、文学として古今の傑作に肩を並べるかどうかは不明だ。文学なら、仕組みの解明に、今ほどの量を費やす必要はない。それでも費やさなければならなかったということ。東浩紀の、作家としての特質は、そこにある。彼は、誰もしていない、危険な賭けをしている。この先、裏目が出てもいいのではないか。結果のわかった、安全な作品など、私は読みたくない。批評家の彼にしか書けない、彼だけが書ける作品に挑み続けてほしい。
 

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2010.06.24  |  CULTURE
COLUMNIST

木部与巴仁

詩人

「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/

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