2010.08.31
「変」な「愛」が綴られた、11篇の物語。岸本佐知子『変愛小説集II』
「愛にまつわる物語でありながら、普通の恋愛小説の基準からはみ出した、グロテスクだったり極端だったり変てこだったりする小説」(『変愛小説集』あとがきより)
これを著者は現代の英米文学から選び、アンソロジーとした。
第1弾『変愛(ヘンアイ)小説集』が刊行されたのは2008年5月。好評だったと見えて、2年後の去る2010年5月、第2弾『変愛小説集II』が刊行された。どちらも11編ずつ、計22編が、翻訳者・岸本佐知子によって「変愛小説」と認められたわけである。

ある女子大生が海に投げ出され、流れ着いた島には、なぜか二枚目の"イケメン"しかいなかった。まったく、なぜか! 理由も原因もない。当然、すべての"イケメン"と関係するが、夢のうちなら実現したいことも、それが現実になると、実現したくない悪夢になるという皮肉。タイトルはそのままの『彼氏島』。
アリスの体内は荒野と化した。文字どおり、何もない、のである。風が吹いている。見渡すかぎり、はるか彼方まで、何もない。それを理解してくれるのは、彼女の体内に出たり入ったりして苦としない、タイトルがいうスペシャリストだけ。相当の評判作とみえて、The Big Emptyとして映像化され、You Tubeで公開されている。
友人が、妹を紹介してくれるという。しかし、いつも会えない。友人は、酒場でもパーティでも、妹がいただろう、あいつはお前を見て気に入ってたよと友人にいわれるが、それらしき女性はいなかった。会えないまま、まだ見ぬ妹への恋心が募ってゆく。そんな、独り身の、老人の物語『妹』、など。
紹介したのは、第2弾の一部である。
さて、「変愛小説」というなら日本にも数多く存在する。
谷崎潤一郎を、「変愛小説家」と呼んではいけないだろうか? 谷崎ファンなら、今さらいうまでもないと思うだろう。
愛する女のいいなりになって、どんな屈辱にも侮辱にも耐える。それが彼には純粋の愛と感じられる。(『痴人の愛』)
ある高齢の貴族が、若い女性に寄せる想いが高じて苦しむ。そこで彼女をあきらめようと、おまるを奪い取って、実態を点検しようとする。(『少将滋幹の母』)
慕う人とは結婚できず、その妹と結婚した男。姉を誘って、しばしば三人で旅に出るが、妹は姉の乳--子どもを産んで夫に死別したばかり--を、夫に飲ませる。(『蘆刈』)
妻を恋うるあまり、酒で意識を失わせて裸体を写真に撮り続ける男。妻も、夫の趣向を知って気を失っている......。(『鍵』)
これらを「変愛(ヘンアイ)小説」といわずして何といおうか。そして、真面目な「恋愛小説」でもある。ここには要約しただけだが、主人公たちに不純な動機はまったくないことがおわかりいただけると思う。
谷崎は、「グロテスクだったり極端だったり変てこだったりする(変愛)小説」で、日本のみならず世界に知られる文豪になった。愛する人が盲目で、その気持ちをわかりたいからと自分の目をつぶす『春琴抄』など、その極致であろう。そこまで行かなくても、谷崎自身、最後の夫人に対しては、結婚したら自分を下僕として扱ってほしいと手紙で書き送っている。「変愛」の実践者であったのだ。
皆さん、思い当たるに違いないが、恋愛は「変愛」である。程度の差こそあれ、愛とは変なもの。うわべだけではない、恋愛と真面目に取り組んだ小説なら、自然と「変愛小説」になる。彼の、あるいは彼女の、あなたへの恋し方が「普通の恋愛(小説)の基準」程度なら、残念ながら愛されているとはいえませんよ、とすら私はいいたい。
続いて、第1弾『変愛小説集』の一部を紹介する。
木に、恋してしまった。人の家の木であろうがどこに生えていようが関係ない。近づくなといわれても知ったことか。寝ても覚めても心に木が浮かぶ。自分のものだと思う。そんな女性を愛しいと思う、パートナーの男性。(『五月』)
彼女は、身体が宇宙服になる病気にかかった。爪先からだんだん宇宙服になり、全身が覆われた時、宇宙に飛び出してゆく。心配しないでいい。そのころは、誰も彼もがかかる病気なのだ。ぼくも、早く病気にかかりたいと思う。そうして宇宙の果てまでも追いかけてゆきたい。(『僕らが天王星に着くころ』)
ふたりを引き合わせてくれたのは、大伯母だった。大伯母が死んだ時、彼女への感謝の気持ちと、ふたりの結婚式に出席してほしかった気持ちもこめ、大伯母の骨を粉にし、それを練りこんだ柿右衛門様式のパンチボウルを作った。そして披露宴のテーブルに出したのである。高らかに響く乾杯の音頭(『柿右衛門の器』)、など。
繰り返しになるが、書き並べていて、やはり思う。どの話も"変"ではない、と。愛していればこその行いであり、非常にまともである。まとも過ぎる......きらいはあるが、彼ら彼女らは、相手を嫌ったり憎んだりしていない。まともなのに"変"扱いされるのは、当人たちにとって本意ではないだろう。
あなた自身の恋愛とくらべてみることである。愛し方、愛され方に少しでも変なところがあれば、有望であろう。
『変愛小説集III』が刊行されるかどうかはわからない。もう一冊作るくらいの「変愛小説」はあるはずだ。しかし出ないなら、読者は自分が実践者になればいい。『III』に収録されるくらい、「グロテスクだったり極端だったり変てこだったりする(恋愛)」を、謳歌しようではないか。
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/