2010.09.16
いまの時代を生きる、正直な歌人。
穂村弘『もうおうちへかえりましょう』
星の夜ふたり毛布にくるまって近づいてくるピザの湯気を想う
死んでしまった仔猫のような黒電話抱えて歩む星空の下
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
穂村弘の三首である。小学館文庫に収められたエッセイ集『もうおうちへかえりましょう』より。
これらの歌には時代がある。気分といってもいい。風景といってもいい。実像といってもいい。はっきりと現代が、現代に生きる日本人の姿が、見えてくる。

『もうおうちへかえりましょう』は、エッセイ集である。歌は少なく、ほとんどは彼の散文、いうなれば"身辺雑記"。しかし、歌人の書いたものである以上、すべては歌に結びつく。
「曇天の午後四時が怖ろしい」
「ひとりの時間を優雅に過ごせない」
「この世には完全に不毛な行為というものがある」
「本当の自分に生まれ変わりたいと思う」
書き出しの一文を拾った。こうした感覚が、彼の歌を生み出す力だ。一首があるとして、二百ページのエッセイは、その解説のためにある、といってもよい。解説という言葉がありきたりなら、散文、エッセイの形を借りた、実は歌なのだと言い換えよう。
本書に先行した小学館文庫のエッセイ集『世界音痴』にせよ、他社の文庫に入っているエッセイ集『本当はちがうんだ日記』『現実入門-ほんとにみんなこんなことを?』『にょにょっ記』なども同様。穂村弘のファンはおそらく、彼のエッセイを、歌として読んでいる。少なくとも、歌につながるもの。つながるなら、それはもう、歌である。
歌人とは何か?
歌が生まれた古代よりこの方、歌人は、時代を詠む者として存在したと思う。
小説家も、エッセイストも、詩人も、劇作家も、俳人も、評論家も、時代を生きている限り--時代を生きていない者などいないと思いながら、あえて表現する--、彼ら、彼女らは時代を刻印してきた。文字によって。しかし、歌人こそ、時代の刻印者だった。その根拠とは何か?
初雪発見係目覚めて呆然とみつめるいちめんのゆきのはら
惑星別重力一覧眺めつつ「このごろあなたのゆめばかりみる」
やはり『もうおうちへかえりましょう』にある歌。
現代とは、こんなにも淡いのだろうか。
現代人はこんなにも、感覚に頼ってしか生きていないのだろうか。
「初雪発見係」
「惑星別重力一覧」
初めて目にした言葉だが、もちろん、作者・穂村弘が造ったのである。しかし、あり得る言葉だ。理解できる、何となく。ヨーグルトのように軟らかく、不確かだ。石のような硬さも確実さもない。しかし、わかればそれでよい。
駅のキオスクで確かめたら、ヨーグルトは摂氏10度以下で保存して賞味期限内に食べなければならなかった。しかし、石にそんな心配は無用。周囲が冷たくても熱くてもいい。賞味期限など初めからない。
手を突っこめば崩れ、期限を保証されなければならないほど新鮮な、ヨーグルト。穂村が用いるのは、そのような言葉だ。
歌人は、新鮮な感覚を詠む。新鮮な言葉を用いて。結果、いまという時代が、そこに映る。だから歌人は時代を詠む者だ--。
そう、ひとつの結論を導いた上で、別の見方を示したい。源実朝と西行の歌をあげる。
世の中は常にもがもな渚こぐ海人(あま)の小舟(をぶね)の綱手かなしも 源実朝
ハイウェイの光のなかを突き進むウルトラマンの精子のように 穂村弘
願はくは花の下にて春死なんその如月(きさらき)の望月(もちつき)のころ 西行
立ち読みの『アリス』の版数確かめていたら真夏が笑って死んだ 穂村弘
並べてみて、不思議と違和感がないのではないか。
実朝も西行も、穂村弘より800年以上前の歌人である。実朝は思うように生きられない世の中の切なさを詠み、西行は死と引き換えにするほど強烈な花の美を詠んだ。彼らの思いを、大きく揺れ動いた時代を背景に解釈してもよい。片や、やがて暗殺される鎌倉幕府の将軍。片や、武士が嫌で出家し、激動する時代に背を向けて旅に生きた。それを前提に解釈するのが教養的態度だろうが、知らなくてもいいかもしれない。時代は関係なく、人が誰しも持つ、普遍の感情として受け取れればよい。世の中は切ない、死ぬなら花の下で死にたい。
穂村弘もまた、そうした感覚を繰り返し詠んでいるだろう。実朝や西行も、未来人に詠んでほしいなどとは考えず、時代を生きた気持ちを正直に詠んだ。技巧より真情が先に伝わる。いや、技巧を持って真情を伝えたというべきか。いずれにせよ、歌が残った。時代の感覚を超えた、歌の感覚が残った。それは、未来の私たちにも伝わるものだった。
西暦三千年、日本語が残っている保証はどこにもない。しかし穂村は、時代を生きる者として、正直に歌を詠んでいる。彼なりの技巧を持って。
「近づいてくるピザの湯気」や「仔猫のような黒電話」や「ブーフーウーのウー」や「初雪発見係」や「惑星別重力一覧」や「ウルトラマンの精子」は未来人にわからないかもしれないが、「真夏が笑って死」ぬ感覚は、わかってくれるかもしれない。いや、わかるだろう。その際どさを詠むことが、歌ではないか。いやすべての表現だといいたいが、歌に際立つと書いておく。それは、文庫本の一行にもならないきらめきと、はかなさを、短歌が持っているゆえ。
「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」
「とりかえしのつかないことがしたいね」と毛糸を玉に巻きつつ笑う
ワイパーをグニュグニュに折り曲げたればグニュグニュのまま動くワイパー
『もうおうちへかえりましょう』を詠めば、ここにあげた20年前の第一歌集『シンジケート』の歌に、改めて感じるものがある。穂村弘の何がわかったとはいわない。彼はまだ生きて、歌を作っている渦中だから。時代だ、ここにあるのは時代だと思いながら、"エッセイ集"を読み続けた。
「高校生のとき、女の子たちに相手にされなくて苦しかった」
「先日、ラブホテルでシャワールームから出てきた女性に、ああ、びっくりした、そこにいたのか、と云われた」
「夕方の町をひとりで歩きながら、夜ごはんのことを考える」
「朝、目が覚めると、不安に全身が濡れている」
歌ではないが、歌だろう。歌になる刹那の感情が、一冊に詰まっている。
木部与巴仁
詩人
作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運 営。2012年5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週 刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/