2012.01.24
北欧発、今世紀最大の傑作ミステリー
スティーグ・ラーソン『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』
![438101[1].jpg](http://column.madamefigaro.jp/438101%5B1%5D.jpg)
リスベット・サランデルは最高だ。こんな女性はかつて知らな
い。誰の助けも借りようとしない、張り詰めた生き方。しかしその
内側は限りなく脆(もろ)い。脆いから、他人にも自分にも強くあ
ろうとする。閉ざされたその心は涙でいっぱいだ。ちびで、やせっ
ぽちのハッカー、そしてライダー。
ミカエル・ブルムクヴィストは、(誤読かもしれないが、それで
いい)、本来がジャーナリストの、作者の分身である。強い者の不
正には徹底的に立ち向かう。企業であれ政府であれ司法であれ、彼
はひるむことがない。そしてフェミニストだ。女性には限りなく甘
い。女性もまた、ミカエルには甘くなる。
この二人を主人公にしたスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』
は、三部作である。
第一部《ドラゴン・タトゥーの女(原題〈女を憎む男たち〉》」
第二部《火と戯れる女》
第三部《眠れる女と狂卓の騎士(原題〈爆破された空中楼閣〉》
スウェーデンで第一部が刊行されたのは2005年。政治雑誌
「EXPO」の編集長を務めるなど、長くジャーナリストとして
活動してきたラーソンだが、小説はこれがデビュー作である。発売
後、大評判となり、人口900万人のスウェーデンで、三部合わせて
360万部。世界規模では2011年末までに6300万部とい
う、驚異的な売り上げになっている。しかし、ラーソンはこの幸福
を知らずに終わった。原稿を出版社に預け、刊行も決まっていたの
に急死したのだ。心筋梗塞で。50歳で。三部で終わった『ミ
レニアム』だが、ラーソンの構想では十部作に及ぶはずだったとい
う。遺されたコンピュータには、未完の第四部《神の復讐》がある
という。
『ミレニアム』は、書き手について、編集者について、さらには
ジャーナリスト、ルポライター、書くということ、ドキュメントと
いうこと、それらすべてに示唆を与えてくれる、絶好の作品であ
る。分類すればミステリでありサスペンスということになるのだろ
うが、超越している。ジャーナリストを志す人がいたら、『ミレニ
アム』を読むべきである。私は子どもの頃、仕事の内容も知らない
のにルポライターになりたいと思っていたが、そのような少年少女
が今いたら『ミレニアム』をすすめる。書くことと生きることを
(単なる仕事ではなく)不可分と考える彼や彼女がいたら、間違い
なくスティーグ・ラーソンの仲間になれるし、『ミレニアム』の登
場人物ミカエルに重なるといいたい。
毎年11月1日の誕生日、決まって差出人不明の押し花
を受け取る老人がいた。彼、ヘンリック・ヴァンゲルは82
歳。かつてはスウェーデン随一の企業コンツェルン、ヴァンゲル・
グループを率いた実業家だが、今は引退し、首都ストックホルムか
ら鉄道で北に3時間の土地、ノールランド地方のへーデスタ、
へーデビー島にいた。そこは、ヴァンゲル一族の土地である。複数
の屋敷に分かれ、彼らは別々に暮らしていた。押し花は、40年前に
16歳で殺された(としか思われない)、兄の孫娘、ハリエットに重
なる。生前のハリエットが誕生日に贈ってくれていたのだ。ハリ
エットがいなくなった今、いったい誰が?
雑誌「ミレニアム」の経営者で記者でもあるミカエルは、名誉毀
損の裁判に敗れた。大実業家ヴェンネルストレムに国費を不正流用
した疑いがあると告発したものの、事実無根とされ、反証できな
かったのだ。社会派ジャーナリストとしての名声は傷ついた。そん
な折り、ミカエルに電話がかかる。ヘンリック・ヴァンゲルが会い
たいというのだ。用件は、40年前に16歳で殺された
(としか思われない)兄の孫娘、ハリエットの謎を探ること。
--読み始めた時、ミステリやサスペンスといった、ジャンル小説
かなと思った。それなら読まなくていい。ジャンルのファンが読ん
でくれるだろうから。しかしその場合は、ジャンル外の読者に広が
らない可能性がある。私はジャンルの外にいる。ミステリだから、
サスペンスだからというだけでは読まないのである。だが、みごと
に違った。ジャンルの垣根を、『ミレニアム』は超えていた。
ヘーデビー島の祭の日、何の前触れもなくハリエットの姿が消え
た。手がかりはない。島と本土を結ぶ橋は折からの交通事故で遮断
され、舟で誰かが渡った形跡もなかった。ハリエットは密室状態の
へーデビー島で殺され、何らかの手段で葬られたに違いない。その
謎を、ミカエルに探ってほしいというのだ。毎年、ヘンリック・
ヴァンゲルに送られる押し花は、ハリエットを思い出させ、あざ笑
うためのものだろう。もし解決できたら、ミカエルが何より欲しい
はずの、ヴェンネルストレム不正の証拠を提供するという。表向き
は、ヘンリックの自伝を代筆する、記録者としての依頼だった。
自分は探偵ではない--。初めは乗り気になれなかったミカエル
が承知したのは、ジャーナリスト精神を刺激されたからに違いな
い。不正を追及し切れなかった不甲斐なさ。悪は何としても凝らさ
なければという正義感。ヴェンネルストレムの情報を入手したい!
祭の当日、パレードを見物するハリエットの連続写真が残ってい
た。初めは嬉しそうなハリエットが、いきなり不安気な表情になっ
てその場を立ち去っている。彼女は何を見たのか? それこそ
が事件の核心ではないか。
もうひとつ、大きな手がかりがあった。ハリエットが、五人の女
性の名前を数字に結びつけた、メモを書き残していたのだ。重要ら
しいことは明らかでも、意味がわからない。しかしミカエルは、聖
書に精通した実の娘の言葉から、その謎を突き止める。数字は、旧
約聖書モーセ五書・第三書「レビ記」の章および節なのだ。それは
刑罰に関する文。例えば32016は、「レビ記」第三書の3
と、20章16節を表わしている。こんな文章だ。
「女が獣に近づきこれと交わるならば、その女と獣とを殺さなけれ
ばならない。必ず死刑に処すべきである。その血は彼ら自身に降り
かかるであろう」
記録を探ると、まさにその通りの殺され方をした女性がいた。残
る四人の死も確かめられた。聖書の文言を利用して女性を殺す、殺
人鬼がいたのだ。もしかするとハリエットも、その悪魔の手にか
かったのではないか?
作者のスティーグ・ラーソンには、32年来の恋人、建築家
のエヴァ・ガブリエルソンがいた。結婚しなかったから恋人と書く
が、実体は誰もが認める夫婦だった。エヴァが、『ミレニアムと
私』(早川書房)に思い出を記している。
『ミレニアム』が刊行される3年前、2002年に、ふたり
は一週間の休暇を過ごしていた。エヴァは建築家に関する本を書い
ていた。しかしスティーグは部屋をうろつき回るだけ。何か書く
テーマはないの? とエヴァが問う。スティーグは答えた。「ない
よ。でも、1997年に書きかけた『クリスマスに花を受け取る
老人』という作品を思い出したところなんだ。覚えてる?」そして
言葉を続けた。「あの老人がどうなったか、ぼく自身知りたい気が
するんだよ」まさにその老人こそ、差出人不明の押し花を誕生日に
受け取る、ヘンリック・ヴァンゲルの原形だろう。そこから、すべ
ては始まったのである。
『ミレニアムと私』には、スティーグ・ラーソンが、どんな風にし
て小説を書いていったかが記されている。ふたりが結婚していな
かったため、彼の死後、著作権の継承をめぐってエヴァがどんな苦
境に追いこまれているかも。作家の素顔を知りたい人には、こちら
も一読することをすすめたい。
ミカエルは助手が欲しいと思った。ヘンリック・ヴァンゲルはミ
カエルを雇う前、警備会社に依頼して身辺調査をしていた。本人し
か知らない情報が、コンピュータへのハッキングによって取り出さ
れていたのだ。ミカエルは憤るが、逆にその腕前こそ必要だと思
い、調査員を助手に指名する。リスベット・サランデルだった。警
備会社でも並ぶ者のない技術の持ち主である。
「髪を極端に短く刈り、鼻と眉にピアスをつけ、拒食症かと思うほ
どにやせた青白い肌の娘」
「首に長さ二センチのスズメバチのタトゥーを入れ、さらに左の二
の腕と足首の回りにも帯状のタトゥーをしている」
そして背中には、ひときわあざやかな、ドラゴンのタトゥーがあった。
「もともと赤毛の髪は、カラスのような漆黒に染められている」
「骨のつくりが細いため、少女のように華奢で弱々しく見え、手は
小さく、足首は細く、胸のふくらみを服の下に識別するのは容易で
ない。二十四歳だが、十四歳くらいにしか見えない」
他人と気やすく交わらず、お世辞などとは絶対に無縁。だが、そ
れは彼女の過去がさせるものだった。彼女は父親を含む世の男たち
から虐げられ蔑まれて来た結果、全身をとげだらけにして生きざる
を得なくなったのだ。まったくの正常者だが、その反抗的態度から
精神に異常があるとして病院送り。警備会社で誰も及ばぬ成果をあ
げるほどなのに、社会の不適格者とみなされ、後見人を置かれてい
る。そして信頼する後見人が病に倒れ、新たに就任した後見人に
よってリスベットは、陵辱され、心身に傷を負わされていた......。
読みだしたら止まらない。物語を追おうとして。それはもちろん
だ。ハリエット失踪の背景は? 犯人は? ヴァンゲル一族のおぞ
ましい歴史とは? 謎解きのおもしろさに、ミカエルとリスベット
の愛の行方をからませ、さらにジャーナリストとしてのあり方を、
ラーソンは人生を重ねながら描いた。
評判になった小説である。すでに映画化されている。本国のス
ウェーデンでは三部まで完結し、日本では劇場公開を終えてDVD
化された。ハリウッドでも第一部が映画化され、『ドラゴン・タ
トゥーの女』として、2月10日から日本公開が始まる。
スウェーデン版の監督は、一部がニールス・アルデン・オプレ
ヴ、二部と三部がダニエル・アルフレッドソン。映画だから小説と
の違いはあるが、日本では馴染みの薄いスウェーデン映画に、これ
で私も出会うことができた。首都ストックホルムはもちろん、北欧
ならではの雪景色や水辺の風景が美しい。リスベットを演じたノオ
ミ・ラパスが好演。英国アカデミー賞を始め、数々の主演女優賞を
獲得している。
そしてハリウッド版『ドラゴン・タトゥーの女』は、デヴィッ
ド・フィンチャー監督作品。デビュー作『エイリアン3』に始
まり、『セブン』『ファイト・クラブ』、記憶に新しい『ソーシャ
ル・ネットワーク』など、評価の高い数々の作品を発表してきた。
こちらのリスベットは、『ソーシャル・ネットワーク』にも出演し
たルーニー・マーラが演じ、ミカエルには007のジェームズ・
ボンド役で広く知られたダニエル・クレイグが扮する。
スウェーデン版との最大の違いは、目を凝らさなければならない
ほど沈んだ画面だろう。初めは馴れなくて不安になるが、そこまで
雪に閉ざされ、謎に閉ざされた世界を観ているのだと視覚的に納得
する。フィンチャー作品になくてはならないジェフ・クローネン
ウェスが、今回も撮影監督をつとめた。観ている時はよく観えない
と思うのに、見終わってから記憶に残っていると感じるのは不思議
だ。映画を支えるのは絵。物語の根本は変わらないが、絵に作品の
個性が現われる。
この不満は、私という書き手の、好意あってのものと受け取って
ほしい。スウェーデン版にせよハリウッド版にせよ、やはり映画で
は、ライターとしてのミカエルを実感させるのは難しいと思った。
ライターの実体は、コンピュータに向かってひたすら原稿を書くこ
と。取材で飛び回るのは、原稿を書く準備のためで、書くことこそ
本質だ。思考と指先は最高速で回っているが、全身の動きは止まっ
ている。遠目には、椅子に座っているだけで何もしていないとすら
映るだろう。あるいは楽な仕事だ、とも? 両方の映画を観て思っ
た。ミカエルは、いつ原稿を書いているのかな? と。小説は、さ
すがに作者の実感がこめられているから、原稿を書いている間は携
帯電話の電源を切って周囲をいらいらさせるとか、締め切りをめぐ
るライターと編集部の緊迫したやりとりなどが描かれて、リアリ
ティに富む。もちろん、これはないものねだりだ。ダニエル・クレ
イグの、どうしてもジェームズ・ボンドと重ねてしまうミカエル像
を楽しめばいい。
そして、改めてリスベット・サランデルの魅力を実感する。虐げ
られて、そのたびに反発する、これほど強い女性像は他になかっ
た。我慢などしない。男として、女性が差別されることには人一倍
敏感だった、原作者スティーグ・ラーソンの考えがリスベットに反
映されている。
「スウェーデンでは女性の18パーセントが男に脅迫された
経験を持つ」
「スウェーデンでは女性の46パーセントが男性に暴力をふる
われた経験を持つ」
「スウェーデンでは女性の13パーセントが、性的パートナー
以外の人物から深刻な性的暴行を受けた経験を有する」
「スウェーデンでは、性的暴行を受けた女性のうち92パーセ
ントが、警察に被害届を出していない」
原作『ドラゴン・タトゥーの女』各章の扉ごとに、スティーグ・
ラーソンはこんな統計を記している。男女平等で福祉が行き届き、
国民の社会意識も高いと思われている、あのスウェーデンで! リ
スベットが闘っているのは、こんな男性優位社会なのである。読み
たかった小説であり、その映像化作品は、観たかった映画だ。21
世紀を代表するヒロインが生まれたと、記しておこう。

『ドラゴン・タトゥーの女』〈監督〉デヴィッド・フィンチャー
写真は、ルーニー・マーラ扮するリスベット・サランデル
2月10日より全国ロードショー
www.dragontattoo.jp/
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/