2011.12.26
新訳で復活する、SFの古典的名作。
ロイス・ローリー『ギヴァー 記憶を注ぐ者』
![978-4-7948-0826-4[1].jpg](http://column.madamefigaro.jp/978-4-7948-0826-4%5B1%5D.jpg)
来るべき未来。薔薇色の未来という表現もあったが、未来が明るいものとは限らない。
2011年現在なら、出口の見えない経済不況、格差社会の拡大、原発事故、地球温暖化、国境紛争、民族紛争、テロの横行、著しい家庭や学校や地域社会の崩壊など。
これらの問題が1年や2年で解決するとはとても思えない。問題を解決しても、その未来が人や環境にとってよいものになるとは限らない。むしろ逆かもしれない。
平等をめざしたソ連の共産主義体制は崩壊し、中国では言論の統制が問題になっている。ではアメリカや日本の資本主義体制がいいかというと、そうは断言できない。金がすべて、力がすべてという欧米や日本の経済が生んだ格差社会。その是正を、若者こそが強く求めている。
人と地球にとって、どうなるのがよりよいのか。2011年は、そのことを強く考えさせられた。
そんな年の終わりに、まずアリー・コンディが2010年に発表した『カッシアの物語』(高橋啓・訳/プレジデント社)を読む。作家は児童書、ヤングアダルト向け小説の書き手とされているが、優れた作家にジャンルは関係ないといっておこう。
いつとは知らない未来。地球の温暖化が原因で、すでに一度、世界は滅んでしまっていた。生き残った人々は、ソサエティと呼ばれる社会を築いている。再び過ちを繰り返すまいと、変化と名のつくものは排除されて、徹底的な管理社会が生まれた。他人と異なる考え方は戒められ、結婚の自由も、死ぬ自由も(つまり生き続ける自由も)捨ててしまった。安定の代わりに、あらゆる自由が放棄されたのだ。そして、人はそのことに疑問を抱いていない。
17歳のカッシアは、ソサエティが執り行う"マッチ・バンケット"によって、人もうらやむ結婚相手を決められた。未来の夫は、利発な美少年、ザンダーだという。しかし、彼女がひかれているのは、むしろ問題児とされる少年、カイだった。周囲の人は誰もがカッシアとザンダーの結婚を望み、それが当然だとも思っている。そうできれば楽だろう。ソサエティの掟にも背かずにすむ。しかしカッシアはわかっていた。ザンダーとの結婚は自分の心にこそ背く行為だと......。
『カッシアの物語』は、近未来SFである。また、理想郷をさすユートピアの反対語、ディストピアを描いた小説ともいえる。第二部、第三部の刊行も予定されているというから楽しみだが、そんな彼女に影響を与えたのが、『カッシアの物語』より17年前、ロイス・ローリーが1993年に発表したディストピア小説『ギヴァー 記憶を注ぐ者』である。(日本では『ザ・ギバー 記憶を伝える者』として掛川恭子訳で刊行されていたが絶版となり、現在の書名と新訳で再び世に出た。後述する)
『ギヴァー』の物語世界、コミュニティでは、人々は〈同一化〉を選択していた。世界のあちこちにある差異や区別をなくすため、原因となる"非同一"な現象をなくしてしまったのだ。例えば、雪がない。なぜ、なくなってしまったのかという問いに対する答えはこうだ。 「〈気候制御〉のせいさ。雪は農作物の生長を妨げ、農耕の時期を制限してしまう。それに、いつ降るか予測できない雪のせいで交通が止まってしまうことがある。はなはだ実用的でないから、わわれが〈同一化〉に向かうさいに、時代遅れのものとして退けられたのだ」
四季の違いはない。土地の高低差もない。色彩の区別もない。寒暖の差も貧富の差も美醜の差も、同一ではない、ありとあらゆるものがなくなった。
読者は呆気にとられるだろう。高低差がないなら、地球は平たくてのっぺらぼうなのか? こんなに豊かにあふれている世界の色はどこへ行った? 暑さも寒さもないなら自然の移り変わりはどうなる? 貧富がないのはよくても、経済の仕組みは? 美醜がないのもいいだろう。しかし、それを判断する人の感性までもしや、なくしてしまった......?
先に引いた答え、それを促した質問は、コミュニティで最も重要な役割の担い手とされる、ギヴァーとレシーヴァーによる。
ギヴァー(The Giver)とは、副題にあるとおり"記憶を注ぐ者"で、おのれに蓄えられたコミュニティの記憶、人の歴史といってよいが、それを後代に伝える者である。
レシーヴァー(Receiver of Memory)とは"記憶の器"で、ギヴァーによって伝えられた記憶を管理する、ギヴァーと同じくコミュニティ唯一の存在である。誰が考えても重責の担い手だが、それに12歳の少年、ジョナスが任命された。賢くても、同世代の少年や少女と大きな違いなどないかに見えるジョナスに、なぜ? 全体の3分の1あたりに配された、この思いがけない展開が、物語の実質的な始まりとなる。
ジョナスが受け取らなければならならなかった記憶は、あまりにも重く、痛く、辛いものだった。コミュニティには差異や区別がなく、ジョナスも知らずに過ごしてきたのに、それを次から次へと体験しなければならない。ギヴァーがジョナスの背に手を乗せると、伝わってくる。例えば戦争で傷ついた者の記憶が--。
*
すぐ横で人の声がした。「水」
渇きでしわがれた、ささやくような声だった。
ジョナスは振りむき、声の主の半開きになった目に見入った。ジョナスとさほどちがわない歳格好の少年だった。顔も、もつれた金髪も、泥で汚れていた。力なく手足を伸ばして横たわっている。グレーの軍服は鮮血でべっとりと濡れ、ぎらついていた。
殺戮の色彩はグロテスクなまでにあざやかだった。ほこりだらけの粗悪な布地を濡らす血の深紅、黄金色の髪に張りついた草の切れ端のはっとするような緑。
少年はジョナスを見つめ、再び懇願するように「水」と言った。しゃべった拍子に口から血がごぼっと噴きだし、ざらついた服地の胸や袖を濡らした。
*
残酷な場面だが、ここには色があるではないか。痛みも悲しみといった感情もある。死の観念もある。実はコミュニティでは、人は死を知らない。"解放"という、あいまいな言葉で言い換えられている。生まれたばかりの双子の一人は注射を射たれて"解放"される。差異をなくすためか? 発育不良の新生児は"解放"される。不良という差異をなくすため? するとこの世界には、悪人=不良はもちろん、善人もいないことになる。
そしてジョナスは、レシーヴァーであるがゆえに過去を知り--くどいが、〈同一化〉のためだろう、コミュニティには過去も未来もなく、現在しかない--、人にとってかけがえのない大切なものとは何かに気づいてゆく。
このようなディストピアを描いた物語の代表は、ジョージ・オーウェルが1949年に発表した『一九八四年』だろう。オーウェルには、1945年の作品『動物農場』がある。家畜が人を追い出し、動物たちだけのユートピアを作るが、結局は力で支配する者の独裁政治に終わってしまう、苦い結末だった。『一九八四年』は、『動物農場』の寓話性を削ぎ、世界の規模を農場から国家へとスケールアップさせている。
核戦争によって世界を滅ぼした後、人類は徹底的な全体主義社会を築いた。実在すら疑わしい"ビッグ・ブラザー"が支配する、一党独裁の世界。あらゆる行動が監視され、歴史は都合よく改竄されて何が本当のことかわからなくなっている。真実を知ろうとすることは罪。それに背いた者を待っているのは拷問、収容所、死刑。主人公の仕事は、まさに歴史を書き換えることだったが、彼は女性との恋愛をきっかけに、社会の非人間性に気づく。だがその裏切りを、党が見過ごすわけはなかった......。
『カッシアの物語』、『ギヴァー 記憶を注ぐ者』、『一九八四年』。三作に共通する点がいくつかある。大きくは、滅亡後の"新世界"は薔薇色などではないということ。未来は自由の認められない管理社会だということ。ほとんどの住人は疑問を持たずに暮らしているが、主人公は何かをきっかけに現実を疑い始め、それが物語を牽引する力となる。
私たちの現実も、同じだと思う。格差社会への不満、原発行政への批判、家庭や学校、地域社会の崩壊など、国境や民族間の紛争も含め、何かおかしいと思うところから始まっている。政治の言いなりにならない、おかしいと少しでも思ったことは口に出してみる。現代社会をユートピアと思う人は、おそらくひとりもいないだろう。とすると、ディストピアは今?
作者のロイス・ローリーは、この『ギヴァー』を三部作として、2000年に第二部"Gathering Blue"、2004年に第三部"Messenger"を書き継いだという。日本語訳が待たれる。
また、旧版の『ザ・ギバー 記憶を伝える者』を読んで大切な作品だと思い、再刊行に結びつく努力をした人たちがいることも書き添えておこう。"『ギヴァー』を全国の読者に届ける会"協力者の名が巻末に記されている。--暗いディストピア小説なのに、どうして? 物語の設定は近未来でも、ロイス・ローリーが今を書いている、今の私たちにとって大切なことを書いていると、多くの人に確信させるからだろう。
2011.12.26 | CULTURE
木部与巴仁
詩人
作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運 営。2012年5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週 刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/