2009.09.25
リトルピープルの世界が息づく写真集
Slinkachu『Little People in the City』
「あいつらはペットじゃないんだよ、スーザン」
ライフルの先から、まだ煙が出ていそうだ。
撃ち落とした蜂を前に、熊のぬいぐるみを抱く娘に告げる、若い父。やわらかな陽が射す、ロンドンの路上で起きた、できごとだった。動物愛護の精神からいえばひどい話だが、身の丈ほどもある蜂が飛んできたのでは、致し方あるまい。
ところが、その父と似た男性が、今度は蝿に食べられている! そばにはちぎれた足。男は両手を上げ、血だらけで苦悶の表情を浮かべている。場所は、乾いたほこりが積もる、ロンドンの裏通り。蝿にとっては御馳走だろう。Little People"リトル・ピープル"の周囲には、彼らと同じ体長の蜂や蝿が飛び回っている。実に過酷な人生である。人と虫が対等なのだから。
Slinkachu『Little People in the City』
Slinkachu-スリンカチュウと読むのだろうか?その名を知ったのは、ウエブ上でのこと。別の写真家の作品を検索していて、偶然、とあるブログで彼の写真に出会った。
ふたりの男が、黄色いスナック菓子を運んでいる。ごみ袋からこぼれた菓子を、食料にするのだろう、大事そうに、前後になって抱えてゆく。とても小さい。2センチくらいの身長しかない。名前通りのリトル・ピープル。Slinkachuは、その二人をScavengers"清掃者たち"と呼んだ。
Slinkachuには、彼自身のウエブサイトwww.slinkachu.comがあった。リトル・ピープルの写真を掲載している。写真集があるらしい。さっそく購入して、その小さな世界を堪能することにした。
--人は、その人固有の視線で周囲を見ている。180センチの人と150センチの人とでは、見えているものが違うだろう。満員電車の車内を想像してみればいい。これが2センチのリトル・ピープルとなれば、まるで別世界だ。リトル・ピープルに見えているものが、おそらく私たちには見えていない。存在自体を、見逃している。先ほどの清掃者も、人の目には、ごみ捨て場のコーン菓子しか映らないはずだ。しかし目を凝らすと、菓子が動いている......!
写真集を開くと、まず背広姿の若い男が、運河の護岸に腰を下ろし、腕組みして夢想にふけっていた。しかし、私たちの目には、苔むした護岸しか見えない。
赤い救命ボートが出動して、女性の溺死体を収容している。しかし、私たちに見えるのは、舗道に広がる水深1センチ未満の水たまりだけ。
ネクタイをきちんと締めたビジネスマンが、黒い鞄を振り上げて同僚を叩きのめしている。Slinkachuは、これをOffice politics"社内抗争"と表現する。一大事だが、私たちの目には、ほとんど舗道の敷石しか見えていない。
Slinkachuは想像力を刺激する。見えるものと見えないものの対比。大きいものと小さいものの対比。一つの世界に二つの世界が混在している不思議。にやにやしてページをめくるうち、気がつくと自分も小さな世界の住人になっている。
Little Peopleがしていることは、私たちと似ている。等身大の蜂や蝿はいないが、それが人生という不確定なものの喩えなら、やはり似ている。いつ殺されるか、いつ闘わなければならないか、いつ何物に襲われるか、私たちもわからないではないか。
写真集を見終わったら、Slinkachuのサイトにアクセスしよう。本にない写真があった。道に捨てられたみかんの皮の内側で、少年がスケートボードをしている。おもしろい。ごみを拾おうと腰をかがめたら、中にリトル・ピープルがいた、なんて! 実際に起きても不思議ではない。私たちは、あまりにも世界に無頓着だ。リトル・ピープルがいないという保証など、どこにもないのである。
木部与巴仁
詩人
「FIGARO JAPON」本誌書評欄などに執筆。作曲家、演奏家とともに、“詩と音楽を歌い、奏でる”「トロッタの会」を運営。2012年3月(月)、すみだトリフォニー小ホールの「日本音楽舞踊会議」演奏会に出演予定。5月13日(日)、第15回「トロッタの会」を早稲田奉仕園スコットホールにて開催予定。隔週刊で「詩の通信VI」を発行中。http://torotta.blogspot.com/