2012.01.20
15:おいくつですか?

ニースでバスに乗っていると、隣に立っていた女性からふいにそう尋ねられた。フランス訛のないイタリア語だった。やぶからぼうに何を、と少し憮然として相手の顔を見ると、その女性は私ではなくこちらの足下をしきりに見ている。私が連れていた犬の年齢を尋ねたらしい。5歳ですが。
「そっくり」
ため息をつき、かがみ込んで犬を撫で続けていたが、その人は突然、ハンカチで目を拭った。泣いている。
思いがけない光景に、バスの乗客たちは驚いている。
やがて私の降りるバス停が近づいたので、かがみ込んだままの女性に別れを告げると、
「ごいっしょしてもよろしいかしら?」
と訊く。
泣き顔の女性と私は、次の停留所でそろって降りた。
四十過ぎくらいか。ジーンズにジャケットという普段着である。ニースに住んでいる人なのかもしれなかった。イタリアとの国境からは車で三十分もかからないうえ、昔はそもそもイタリアの領土だった町である。イタリア系のニース住民は多い。
「私も長らく犬を飼っていました。死んでから、もう十年になります。さっきバスで見かけたとき、心臓が止まるかと思いました。だって、瓜二つなのですもの」
そう言いながら、また涙ぐんでいる。
「ちょっとだけ、いいですか?」
せがまれて、リードを渡した。
普段なら息せき切って歩く犬が、知らない人に引かれて気が気でないのだろう、尾を後ろ足の間に垂れ、おずおずと行く。
「犬がいなくなってから私、少しおかしくなってしまいまして」
気晴らしにインコやカメなどいろいろと飼ってみたそうだが、ぽっかり開いた穴は埋まらない。ぼうっとしたままこの十年ひとりで暮している、と言って、女性はさみしそうに笑った。
「生き写しの犬に会ったということは、『そろそろ次のを』と、うちの犬があの世から勧めてくれているのかもしれませんわねえ」
グラツィエ、メルシ、と女性は繰り返して礼を述べ、何度も振り返っては犬に手を振り、いかにも名残惜しそうに去って行った。
ただ、それだけのことである。
犬とその場に少し立ちすくみ、さていったい今の人は何だったのだろうか、考える。
異国の町で、何の因果か、赤の他人と話しながら並んで歩く。少しだけページを繰って、そのまま先へ読み進まないで打ち捨てる本のようである。
2012.01.20 | CULTURE
内田洋子
エッセイスト
著書『ジーノの家』(文藝春秋刊)で第59回(2011年度)日本エッセイスト・クラブ賞、第27回講談社エッセイ賞を受賞。
UNO Associates Inc.代表。
欧州の報道機関、記者、カメラマンをネットワーク化してマスメディア向け情報を配信。
Title Photo:2011©Julie Pisu